信頼すべき詩型

僕がいま一番興味を持っている俳人たちとその作品について、その良き理解者である著者が愛情を込めつつ明快に論じた本。面白くないはずがありません。
著者が「昭和三十年世代」として括るのは、昭和26年生まれの中原道夫から昭和36年生まれの岸本尚毅までの10名の俳人。彼らに共通の特徴を、著者は第1章で次のように指摘します。

俳句に限らず三十年世代とは、極言すれば世代として求めるもの、主張すべきものを失った世代と言えるだろう。三十年世代とは、ポスト学生運動世代に他ならない。…若者には思想よりもファッションが重要になった。

「俳句に限らず」とあるように、俳句を作る作らないに係わらず、こういう指摘にはこの世代の人間のほとんどが自分自身のこととして頷くことができるのではないでしょうか。(「昭和三十年世代」のちょうど真ん中あたりに位置する僕自身の実感に基づいて言っているのですが…)

「主張すべきものを失った世代」は俳句とどういう出会い方をするのか。片山由美子を論じた第4章では次のように述べています。

片山の抒情は、俳句形式と出会うことによってはじめて、作品の形で引き出されたものである。俳句を始めるに先立って、詠まねばならない何かがあったわけではない。これは三十年世代に共通する傾向だと言えるだろう。

同趣旨の発言は、本書において何度も繰り返されます。第8章では石田響子の「俳句を始めたきっかけはあっても動機がない。」という発言を引用した後、次のように述べています。

昭和三十年世代と俳句との出会いは、多かれ少なかれこんなところがあるのだと言ってもよい。すでに静かになった俳壇に、乗ればどこかへ連れて行ってくれるような潮流があるわけではない。かといって、何かを訴えたくて俳句を始めたわけでもない。

詠まねばならない「何か」、訴えたい「何か」が先にあって彼らが俳句を選び取ったのではなく、俳句との出会いが彼らを表現すべき「何か」を探す旅へと駆り立てたということでしょう。ですから、著者が言うように、「俳句という詩型」は三十年世代にとって最初から「信頼」すべきものとして存在します。その機能を借りることで初めて表現すべき「何か」が見つかりそうだと思われたのですから。季語や五七五は決して「制約」「束縛」ではないのです。
「俳句という詩型」で何ができて何ができないのか、俳句へのこうした問いかけから「俳句形式の機能そのものを楽しむ傾向」が生まれてくるのは必然の流れです。僕が彼らの俳句を読んで楽しいと感じるのは、彼ら自身が「俳句という詩型」を楽しんでいるという側面が多分にあるからでしょう。
しかし、三十年世代が俳句を単なる遊びの道具と考えて自足しているのでないことは明らかです。著者のまなざしは彼らのこれから進むべき方向へと向けられます。冒頭で「僕が一番興味を持っている」と言ったのも、現在の彼らのめざましい活躍ぶりだけでなく、彼らがこれからどういう変貌を遂げようとしているのかを含めてのことです。