食べるように読む

僕と須賀敦子とでは、血筋も、生まれ育った環境も時代も違い、読む本の傾向も(これは男か女かの違いも大きく関係しているように思いますが)ずいぶん異なります。それでも須賀敦子の少女時代から青春時代にかけての豊かな読書遍歴が語られたこの本は、無垢な心(僕の中にもかつてそういうものがあったはず)が未知の世界に足を踏み入れるときの喜びやら驚きやらを思い出させてくれます。そしてまた、僕自身のこれまでの貧しい読書体験に対する悔恨の念を呼び起こさせもするのです。
「葦の中の声」という一編は、アン・モロウ・リンドバーグという僕にとっては未知の(しかしこれをきっかけに読むことになるかもしれない)女性の著作との出会いを語ったものですが、その中に次のような一節があります。

文章のもつすべての次元を、ほとんど肉体の一部としてからだのなかにそのまま取り入れてしまうということと、文章が提示する意味を知的に理解することは、たぶんおなじではないのだ。幼いときの読書が私には、ものを食べるのと似ているように思えることがある。多くの側面を理解できないままではあったけれど、アンの文章はあのとき私の肉体の一部になった。いや、そういうことにならない読書は、やっぱり根本的に不毛だといっていいのかも知れない。

この本の中で語られている、著者と本との付き合いのほとんどは、本を「知的に理解する」というよりも「肉体の一部として」からだの中に取り入れてしまうという言い方がふさわしいものです。そんな風に著者の「肉体の一部」と化してしまった本について語ることは、著者自身について語ることと等しいといってもいいでしょう。須賀敦子がここで取り上げている本を読んでみたいという気持ちを起こさせるものは、その本そのものの持つ魅力だけでなくその本に心をときめかせた須賀敦子という人間の魅力でもあるのでしょう。須賀敦子を一冊読んだだけの僕に、その魅力を語る資格はないかもしれないと思いつつもあえて言うならば、それはよりよく生きようとする意志の強さと行動力から生まれてくるもののように今の僕には感じられます。
決して激することのない静かな語り口で読書の喜びを語る須賀敦子の文章をもっと読んでみたいと思います。それはこの『遠い朝の本たち』同様、人生についての深い思索へと誘ってくれるにちがいありません。そしてそれは自分の肉体の一部となるほど大切な本との出会いをもたらしてくれるかもしれないとも思うのです。


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