磨けばひかる

『俳句界』8月号の「俳句界時評」は、「澤」(小澤實の主宰誌)の田中裕明特集のことを取り上げています。僕にはとても興味深い内容で、さっそく澤俳句会あてにメールして注文してしまいました。そして、本棚の『田中裕明集 (セレクション俳人 (11))』を取り出して再読してみました。面白かった。といっても、僕にとっては難解な句もいくつかあり、これで読んだことになるのかどうか、あやしいものですが。



たとえば、


紫蘇の實をつみて月の出待たれけり


という句。紫蘇の實をつむということは僕にも経験があり、立ち上ってくる香や指先の感覚をイメージすることはできます。それと、月の出が待たれるということ。この二つをどう読み深めていったら、両者が互いに触れ合い、協和音を奏ではじめるのか。僕の中ではまだ二つの素材が生のままで置かれているといった風なのです。


こういう例は、いくらでも挙げられます。


團栗やなりたきものに象使ひ
よき友はものくるる友草紅葉
壷焼やこの人は磨けばひかる



なんで「団栗」なんだ? なんで「草紅葉」? なんで「壺焼き」? でもどの句もなんとなく面白い。今度サザエの壷焼きを見たら、「この人は磨けばひかる」というフレーズが出て来そうな気がします。「紫蘇の實を」の句にしても、よくわからないなりに強く惹かれるものは感じるのです。俳句の読みというのはそれでいいんだということならば、僕は僕なりに田中裕明を読んだということになるのでしょう。
でも、僕は田中裕明をもっとわかりたい。幸い、『セレクション俳人11』には小澤實による田中裕明論「平安の壺」が収められていて、とても参考になるのですが、「澤」の田中裕明特集号はさらに深い理解へと誘ってくれるに違いありません。手元に届くのが楽しみです。