誠実さが生み出す言葉

些事にこだわり感傷に溺れることが多く、思考回路は常に悲観の方に傾き、ことあるごとに自分の卑小さを嘆き自嘲的なせりふを吐かずにはいられない… 南木佳士はこんな自分自身の一面を半ば戯画化して描き出そうとしているようです。僕がこんな南木佳士に惹かれるのは、自分の中にも少なからず同じような資質を認めざるを得ないからかもしれません。執筆時点で筆者の年齢がちょうど今の僕の年齢に等しいということも、共感を覚える要因の一つなのでしょう。
久しぶりに読んだ南木佳士のエッセイ集『急な青空』に収められた文章は、どれも僕の胸にすっと染み込んでくるのでした。

急な青空 (文春文庫)

急な青空 (文春文庫)

寒い朝の誤解」と題された文章は、特に印象に残ったものの一つです。
ある冬の日、筆者の妻は筆者に「おれの仕事の道具に過ぎない」と言われたと泣くのですが、それは通勤のために購入しようとしていた折りたたみ自転車の値段が高いのを「仕事の道具だから仕方がない」と言った筆者の一言を、妻が自分に対して言ったと誤解したのだということが後でわかります。

 もう二十年以上おなじ屋根の下で暮らしている彼女との間でも、私の口にする言葉というものがこれほどまでに誤解されやすいはかなさを秘めた「壊れ物」であることに慄然とした。
 だとしたら、日々の診療で患者さんに話していることのうち、どのくらいがこちらの意図したとおりに伝わっているのだろうか。そもそも私が口にする「痛い?」は、患者さんが感じている「痛い!」とどの程度共鳴しあっているのか。もしかしたら、外来の診察室には「仕事の道具」という言葉に関して生じた誤解のごとき深い溝が常に横たわっているのではないか。

医者である筆者は患者との間に横たわっているかもしれないこの「深い溝」を埋めるためにはどうしたらよいのかと自問します。ここには患者にとってよき医者であろうとする南木佳士の誠実さがよく表れています。しばしば見せる自嘲的なポーズはこうした南木佳士の誠実さの裏返しの表現なのかもしれません。そして、この誠実さこそ、南木佳士の魅力的な文章の根っこを支える大きな力になっているのではないかと、僕には思われるのです。


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