未来の自分のために

僕はこの本をとても興味深く読んだし、多くの若い人にこの本を読むことを勧めたいと思います。特に、読書という行為に対して僕と同じようなことを期待している人は、きっとこの本にワクワクするような面白さを感じることができるでしょう。では読書に対して僕は何を期待しているのか。それについて書く前に、まず次の箇所を引用しておきましょう。

ぼくは「教養」という言葉を二つの意味でとらえている。一つは知識の量で、これは多ければ多いほどいい。しかし、これは少し古風な教養のとらえ方である。

では現代が求めているもう一つの教養とは…

それは、物事を考えるための座標軸をできるだけたくさん持つことだ。「たくさん」とは言っても、ぼくたちの思考方法にはその時代ごとに流行があるから、これは無限というわけではない。ぼくは、その時代に必要な思考方法を身につけることを第二の教養、そして現代の教養と呼んでおきたい。

僕が普段から読書に求めているのは、この「第二の教養」すなわち「思考方法=座標軸」を得ることです。もちろん、「座標軸」は読書のみから得られるものだとは考えていませんし、知識のための読書をまったくしないはずもありません。しかし、僕は多くの場合、自分なりの「座標軸」を得たいという思いから本を手に取ります。そしてこの『未来形の読書術』はそんな僕に、大きな満足をもたらしてくれたのでした。
当然のことながら、この小さな本によって示される「座標軸」は、世の中の全ての事象にあてはめるためのものではありません。ここでは小説を読むときと評論を読むときに有用なごくシンプルな「座標軸」を示してくれているに過ぎません。しかし、小説はこの世のあらゆる人生を描き、評論は社会の万象を対象とするものであることを思えば、ここに示されたシンプルな「座標軸」はあらゆる物事に対して威力を発揮するはずです。すなわち、この本は物事について自分の頭で「思考」することを好む人にとっては必ずや満足をもたらしてくれる本なのであって、そういう人に僕はこの本を強く勧めたいのです。


話がややそれますが、昨年度の「現代文」の最後の授業で生徒に一年間の感想を書いてもらいました。昨年度までの勤務校には実に心優しい子たちが多く、「読解力が少しは伸ばせたかなと思います」「小説の登場人物の気持ちが今までより理解できるようになりました」「面白い授業をありがとうございました」などと、担当教師に対する思いやりに満ちたコメントを書いてくれるのです。*1中でも特に嬉しかったのは「考える力が付いたと思います」という感想を書いてくれた生徒が何人かいたことでした。僕は、とりわけ「現代文」の授業で大切なのは「考える力」を付けさせることだと常々考えつつも、その方法がつかめず試行錯誤を繰り返す毎日なのですから。


ところで、書名に使われている「未来形」という語については説明が必要でしょう。筆者は読書には「未来形」の読書と「過去形」の読書とがあるといいます。
「未来形の読書」とは、「こうありたい」という自分に向けて成長することを目指してする読書、「理想の自己発見のための読書」のことです。そういう目的で選ばれる本には、読み手にとって知らないことが多く書かれているでしょう。
「過去形の読書」とは、「自分の知っていることや考えていることを権威付けしてもたいたい」と思ってする読書。「自己確認のための読書」とも呼べるこういう読書も、誰かに認められていると感じていたい私たちにとっては大切だと筆者は言います。

僕にとって、この本を読んだことは「未来形」でもあり「過去形」でもあったと言えます。なぜなら、筆者自身「あとがき」で言っているように、この本には今までの石原千秋の本で既に述べられてきたことの繰り返しも多いのです。『秘伝 中学入試国語読解法』『教養としての大学受験国語』「「道徳」よりも「リテラシー」を! 国語教科書は何を教えているのか」(斎藤美奈子との対談、『ユリイカ』 2006.9所収)などは僕も既に読んでおり、それらに書かれたことの多くは僕自身の考え方に大きく影響しているのですが、それらがここでもまたくり返されています。その部分に関しては僕にとっては「過去形」、すなわち自己の確認作業です。しかし本というのは「過去形」の中に「未来形」が程よく配分されているのが一番快適に読めるし、理解も進むのではないでしょうか。一人の著者の本を集中的に読むことの効用はそういうこととも関係がありそうです。

*1:中には「先生の授業は眠くなることがあったけど…」などと書いてくれる子もいます。正直でよろしい。