思い出せないもどかしさ

こんなもんじゃ 山崎方代歌集

こんなもんじゃ 山崎方代歌集

ふるさとを捜しているとトンネルの穴の向うにちゃんとありたり

トンネルというのは右左口(うばぐち)峠の下をくりぬいた右左口トンネルのことでしょうか。そのトンネルだったら、高校生のとき歩いてくぐったことがあります。友達と二人、西湖から御坂山地を越えて甲府へ向かう途中、新しくできたらしい長いトンネルの中を、大型トラックやバスが通り過ぎるたびに首を縮めながら歩いたのです。それが今思えば右左口トンネルという名前でした。地図を見ると、方代の生まれ故郷の中道町右左口というのはそのトンネルを甲府側にちょっと行った所ですから、僕らは方代の生家のすぐ近くを歩いたのかもしれません。もっともその頃方代は、終の住処となる鎌倉市手広のプレハブの「方代草庵」に住んでいて、僕は僕で、山崎方代という歌人の存在などはもちろん全く知らなかったわけですが。
それにしても面白い歌を作る人です。

その中の一本のみがどうしてもいじってみてもわからないのだ

「その中の」といきなり言われても、いったい何のことやら、一本、二本と数えるものである以上、それは棒のようなものにちがいないとは思うものの、具体的なイメージを思い浮かべることは不可能です。かといって、何やら深遠で哲学的な意味でも隠されているのだろうかと考えてみても、どうもそうでもなさそうなのです。なんだかよくわからないと思いつつも、その不思議な魅力に抗うことはできません。いったいこの不思議な魅力は、何に由来するのでしょう。

どうしても思い出せないもどかしさ桃から桃の種が出てくる

何を思い出そうとしているのでしょうか。ここでも思い出そうとしている事柄についての具体的な情報は何もありません。そしていきなり桃から桃の種。こういう面白さは、俳句の「取り合わせ」の面白さと通じるように思いますが、方代が取り合わせの面白さを意図的にねらったというのではおそらくないでしょう。方代の中では、思い出せないもどかしさと桃から桃の種が出てくることとは、疑うことなく結びついているにちがいありません。
ところで俳句と言えば、山崎方代は俳人の尾崎放哉や種田山頭火と似ていると言われるようですが、確かに三者には似通った面があるように感じます。

街燈の下を通って全身を照らし出されてしもうたようだ
世の中をはばかるように顔を出し又ひっこめて閉じてしもうた
わたくしの六十年の年月を撫でまわしたが何もなかった
机の上に風呂敷包みが置いてある風呂敷包みに過ぎなかったよ

山崎方代をシュールリアリストと言う人はいないでしょうが、次のような歌は、結果的にとてもシュールな作品になっています。

櫛形の山を夕日がげらげらと笑いころげて降りてゆきたり
そこだけが黄昏れていて一本の指が歩いてゆくではないか

最後に、鎌倉市手広での暮らしぶりを彷彿とさせる作品。

貧乏な詩人が一人住みついて酒をたしなみめしは食べない
手のひらに豆腐をのせていそいそといつもの角を曲がりて帰る

鎌倉の瑞泉寺には上の「豆腐」の歌の歌碑があります。


方代は生前、瑞泉寺の庭園をとても愛したそうです。瑞泉時は今、梅の盛りです。

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