ときにはワケのわからんモノも…


1月15日の日記で北村太郎の『ぼくの現代詩入門 (1982年)』についてちょっと触れましたが、今amazonで調べてみてびっくりしてしまいました。今日現在amazonには一冊だけ出品されていますが(もちろん中古)、価格が8,000円もするんですよ。僕が持っているのは1982年発行の初版本(定価1,400円)。勤め始めて間もない頃に買ったんです。大事にしなきゃ。

さて、先日書いたことの続きになりますが、この本は「詩を読もう、詩を書こう」という若い人のための入門書ということで、最後に「詩の作り方のヒント」という章が設けられています。そこに挙げられている「ヒント」は六つ。もちろんそれぞれについて、具体例を挙げながらわかりやすく説明していますが、ここでは見出しだけ抜き出します。

★コトを書くよりモノを書こう
★たくさん書いて、なるべく早く自分の詩の呼吸をつかむこと
★できるだけたくさんのことばと仲よくしよう
★一篇の詩を得るために、たくさんの行を捨てることを覚悟しなさい
★一篇一篇の詩のリズムに気を使おう
★ときには自分でもワケのわからない詩を書いてみること

この一番目についてはすでに書きましたが、それ以外のヒントについてもすべて俳句・短歌にもあてはめることができるんじゃないでしょうか。
★一句の俳句を得るために、たくさんの句を捨てることを覚悟しなさい
というようなことは、多くの俳句の入門書に書いてありますし、リズムに気を使うのは俳句・短歌ならなおさらのことです。それから
★ときには自分でもワケのわからない短歌(俳句)を作ってみること
なんて言い替えることもできそうです。(もっとも、僕にはこの世の現代詩・俳句のほとんどはワケがわかりませんけど…)
こう考えると、あるジャンルの文芸に上達することを目指して言葉の修練を積むことは、他のジャンルの文芸にも生かせるはずだ、ということになります。だから、俳句と短歌の両方を作る人がいたり、詩人が俳句を作ったり、俳人が詩を作ったり、というのはごく当然のことなわけですね。もちろん、小説家で詩人、という人もたくさんいますし。
言葉による表現の本質的な部分というのは、ジャンルを超えた普遍性を持つということなのでしょうか。
そういえば、北村太郎は『ぼくの現代詩入門』の他の箇所で、詩を読み始めた1936年(今でいう中学生だった頃)は「短歌や俳句も好んで読んだし、小説も乱読しました」と書いています。当時の文学少年としては普通のことだったのでしょうが、正岡子規やその他のアララギ派、そして若山牧水が特に好きだったそうです。北村太郎の詩を読んでいて、短歌や俳句の直接的な影響を感じたことはありませんでしたが、さまざまな作品を乱読した読書体験が作品の養分になっているのは間違いないでしょう。