ウソでもいいから「ハエタタキ」

前回の続き。
『短歌はじめました。』を読みながら、実にいろいろなことを考えました。

ああいたい。ほんまにいたい。めちゃいたい。冬にぶつけた私の小指(←足の)。  すず

という歌をめぐっての、東直子穂村弘沢田康彦の三氏のやりとりなんですが、

東 照れてとりつけたような字余りが愛らしいですね。《冬にぶつけた》ところがほんとに痛そうで。この《(←足の)》がほんとに可愛い。
穂村 いいね、これ。
東 いかにも関西の女の子、って感じがする。お茶目というか。
沢田 サービス心がありますよね。しかもネは真面目で、律儀に五七五七七を守って、でも最後にちょっと気になって《(←足の)》とつけた。これも律儀ですね。

ああ、なんと短歌の世界は寛容なんでしょう。《(←足の)》が全面的に認められちゃっています。俳句の世界だったらこうはいかないのではないでしょうか。五七五の中で何とか「足の指」ということがわかるように四苦八苦するというのが俳句作りの常道でしょう。(ちなみにこの作品の作者、すずさんとは水泳のオリンピック選手、千葉すずさんだそうです。だから許されてるってわけではないんですよ、もちろん。)

明け方の木立すずしき中庭に青いビー球くわえしカラス見ゆ   欣末子

については、東直子

風景がとても印象的で惹かれました。印象派風の描写ですね。《見ゆ》という緊張感のある結句がいいですね。

と評しています。これなども、俳句だったら「見ゆ」については、「見えているのは当たり前だから、ない方がいい」と言われてしまうのではないでしょうか。しかも「見ゆ」のために字余りになってしまっています。「…くわえしカラス」で止めてしまって十分なんではないか、というのが僕の率直な感想なんですけど。しかし、穂村弘にしても、

逆を書くやり方もありますよね。つまり「カラスがくわえしビー玉は見ゆ」とか。

と言っていて、あくまでも「見ゆ」の語は必要との判断なのです。「…カラスのくわえし青きビー球」じゃいけないのかなあ…


…という具合に、俳句を作る立場からすると、戸惑ってしまうような部分も多かったのですが、一方では、これって俳句でもよく言われていることだよなあという部分も少なくありませんでした。
「既視感」があるもの、いわゆる「月並み」はダメ、「冬は寒い」とか「風呂上りにビール」みたいな「つきすぎ」はダメ、とか。
それからこんなことも言っています。

つい覗き選ぶ楽しさ時が過ぎ いらぬ物買う100円ショップ    戸川哲也

についてのやりとり。

穂村 …ここではこの《いらぬ物》を何か特殊な具体名に置き換えただけで、一気に表現を指向する部分を持ちこむことになる。(中略)何がいいかなあ……。
沢田 「ハエタタキ」は?
穂村 あ、それいいですね。「つい覗き選ぶ楽しさ時が過ぎ ハエタタキ買う100円ショップ」。これかなりうまく行ってますね。(中略)感動の質として間違いなく「ハエタタキ」の方がいいですね。
東 《いらぬ物》という意識は自分の中にあっていいけど、それを言葉で出してしまわない方がいい。
沢田 この際、作者が本当にハエタタキを買ったかどうかは問題ではないんですね。
穂村 はい。
沢田 ウソをついてもいいわけですね。
穂村 いいわけです。
東 短歌は、特に最近のものはウソが多いですよ(笑)。いない肉親を詠ったり。「虚構」も本質を探るための技のひとつです。

さて、こうなると、これはもう短歌、俳句だけでなく、文学全般にもつながってくることなのではないかという気がしてきます。
実は(今日は長くなるなあ…)、先日『荒地の恋』を読んだあとで、久しぶりに北村太郎『ぼくの現代詩入門』をパラパラとめくってみたんですが、その中の「詩の作り方のヒント」という章が僕の興味をひきました。そこに書いてあることは、すべて俳句にもあてはまりそうなことばかりだったからです。そのヒントの一番目は「★コトを書くよりモノを書こう」で、ここで北村太郎吉岡実の「静物」を例に挙げながら、「抽象語の羅列」に終わらせずに、より具体的なモノを描くことの大切さを説いています。

ほんとうのことをいうと、詩の本体はコトです。しかしコトを書くためには、まずモノを書くのが書きやすい、といいたいわけ。(中略)皆さんでも、たとえばオレンジとかレモン、トウモロコシなど、果実を一つ目の前に置いて詩を書いてごらんなさい、案外たやすく習作が出来上がるかもしれませんよ。

ここで北村太郎が言っていることは、上の「ハエタタキ」のところで穂村弘たちが言っていることと同じ。具体的な「モノ」を書け、というのは、短歌でも俳句でも詩でも、基本なんですね。
北村太郎が『ぼくの現代詩入門』の中でほかにどんなことを言っていたかは、あらためて書きたいと思います。