『俳句界』1月号を読んで(1)

さあ、新学期。2年の現代文の授業は、まず短歌の鑑賞から。(最後には生徒たちにも短歌を作ってもらう予定ですが、その話はまた後日。)
教科書の「短歌十二首」の冒頭は正岡子規の次の歌です。

久方のアメリカ人のはじめにしベースボールは見れど飽かぬかも

「久方の」という万葉の時代の枕詞を「アメリカ」の「アメ」にかけたところに子規らしい「遊び心」が表れていますね、なんて話から授業に入っていく予定なんですが、…


本題に入りましょう。
『俳句界』にはこの1月号からの新連載がいくつかあります。

俳句界 2008年 01月号 [雑誌]

俳句界 2008年 01月号 [雑誌]

大串章「初心と歩む四季」もそのひとつ。新年らしく「独楽」の句を取り上げながら、今回のテーマの「本歌取り」へと話題が移っていきます。大串章芭蕉

ほととぎす啼や五尺の菖草

が、『古今集』の「郭公なくや五月のあやめ草あやめもしらぬ恋もするかな(詠み人知らず)」の「大胆な本歌取り」であることを紹介し、次のように続けます。

古今集』の歌の前半「郭公なくや五月のあやめ草」の、「五月」を「五尺」ともじって一句をなしている。ここには芭蕉の遊び心が遺憾なくあらわれている。まさに俳諧(滑稽)である。

大串章自身も中学・高校のころからしばしば『本歌取り』の句を試みていたとのこと。「打ち合うてはねてまた寄るけんか独楽」(「毎日中学生新聞」昭和30年1月号の俳句欄で一等)は虚子の「たとふれば獨楽のはぢける如くなり」を踏まえた句であったことを明かしています。
大串章の句の「滑稽」「遊び心」はすでに中学生のころからその句の中に胚胎していたということでしょう。


「新作巻頭3句」でも大串章は他の誰よりもその「遊び心」で読み手を楽しませてくれています。特に次の一句。

電子音初湯沸きしと伝へけり

新しい素材を取り入れつつ、また新しい年を迎えることができた感慨をユーモラスに表現しています。どんなに最新式の湯沸し器だって「ハツユガワキマシタ」などとは言わないでしょうが、ふとそんなアナウンスが聞えてきそうな気がして、そんな錯覚と現実とのギャップが一種のおかし味を生み出すということでしょう。
僕はこうしたおかし味を、俳句の中に積極的に求めたいと思う人間です。ですから眞鍋呉夫による「特別作品50句」の中からお気に入りを挙げるなら、次の二句。

初夢の白布めくれば己が顔
も一人の我とびだせる嚏かな

前者は一種のブラックユーモア。
後者は、マンガチックな笑いとでも言いましょうか、こうした不思議なおかしさは、井伏鱒二の詩の中にも見出せる種類のものです。


ホトトギス紳士録」も今号からの新企画。今回は取り上げたのが高濱虚子だからでしょうか、筆者の坊城俊樹、ちょっと抑え気味かな、という印象です。丑三つの厨のバナナ曲がるなりでみせてくれたような、よく言えば「遊び心」の横溢した文章で読み手をのけぞらせてくれることを、次回以降に期待したいと思います。