文化としてのサッカー

あけましておめでとうございます
今年もよろしくお願い申し上げます



さて、今年の僕の目標の一つ、それは日本語を教えるプロとしての自覚をしっかりと持って、昨年より少しでもいい仕事をする、ということです。
なんて、いきなり立派なことを宣言してしまいましたが、こういう意識を持たずに日々をやり過ごしてしまったら、定年退職を迎えたときに絶対に後悔するんじゃないかっていうことを、最近はすごく考えるんですよ。
というわけで、今年もたくさん読んで、書いて、このブログの内容も充実させたいと思います。どうも硬い内容になりがちなのですが、読んでいただいてコメントなどいただけると、とても嬉しいです。


さて、『「言語技術」が日本のサッカーを変える』(田嶋幸三著)は昨年中に読み終えるはずの本だったのですが、やはり年末はなかなか落ち着いて読む時間がなくて、年を越してしまいました。

「言語技術」が日本のサッカーを変える (光文社新書)

「言語技術」が日本のサッカーを変える (光文社新書)

著者はサッカーには「論理的な思考」が求められると言います。

なぜならサッカーは、スピーディーなゲームの最中に究極の判断を求められるチームスポーツであり、刻々と変化していく局面に対してその都度、自分の考えを明確にし、それを相手に伝えていく必要が生じるからです。

著者は、日本の子供たちにサッカーを教えていて、その能力を高めるようとしても「二つの問題が壁となって立ちはだかっている」と感じるそうです。そのひとつは、「自分が考えていることをことばに出して明快に表現するということが身についていない、ということ」です。だから、日本のサッカーを世界のレベルに引き上げるためには「言語技術」の訓練が必要なのだと説きます。
また、もうひとつの「壁」は「『論理』を求められると、ひとつの正解だけを探し求めようとしてしまう点」だと言います。そしてその原因は学校教育にあるとし、次のように続けます。

(学校で)評価されるのは「答えが合っていたかどうか」だけなのです。
 他人のいろいろな意見を聞いたり、別な考え方を知ったり、議論をしたりという機会がとても少ない。答えはひとつしかないと思い込んでいる。問いを発した人の答えと違う答えを言ってはいけないのではないか、と不安を持っている。間違ったことを言うのを恐れ、恥ずかしがる気持ちがとても強い。現在の教育システムの中に、そんな雰囲気を感じるのです。答えはひとつしか許されない、という空気は、問題をさまざまな角度から論理的に考えていく豊かなプロセスを否定することにつながりはしないでしょうか?

著者はさらに「学校というところは『間違ってはいけない』場所だという考え方」からは、「勇気あるストライカ」は育たないと言います。授業で発言することとサッカーでシュートを撃つということは同義だということです。
まったくその通りなんだろうなあと思います。正解がひとつだけなのなら、自分の頭で考えるよりも先生に答えを示してもらった方が手っ取り早いわけで、勉強とはその答えを覚えることであり、教えられた通りに解答すれば評価される、というのが今の日本の教育システムの基本になってしまっているというのは事実だと思います。発言することが必ずしも評価につながらないのが今の日本の教室の現状でしょう。
自分なりの答えを見つけようとする意欲、あるいは答えを出すまでのプロセスことが大切なのだという立場から現状を検証してみれば、日本の教育はさまざまな具体的な場面において、見直しが必要になってくるはずです。授業の進め方、テスト問題の作り方、評価の仕方、そして何よりも入試のあり方…もちろん、自分自身についても、反省しなければならない点は多々あると感じています。
これらの面での見直しは、日本のサッカーを強くしようとする立場にとどまらず、それ以外のさまざまな立場からの要求でもあるはずです。とりわけ、国際化という課題が絡んできたとき、それは求められるのではないでしょうか。そもそも、国際化とは日本独自の伝統・文化を世界に向けて発信することであり、日本のサッカーが強くなるということも他国の真似事でない日本流のサッカーを文化として世界に通用させていくこと、つまりは国際化のひとつに他ならないのですから。(「その国のサッカー=その国の文化」という考え方も、実はこの本から学んだことのひとつなのですが…)
ほら、やっぱり新年早々硬い内容になってしまいましたね。それでも最後まで読んでいただいた方、どうもありがとう。


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