自己を演じる

2学期の現代文の授業で取り上げた山口昌男の評論「遊び」(『気配の時代』所収)は、高校生に読ませる教材としては少々手強かったのですが、僕にはなかなか興味深い内容でした。

気配の時代

気配の時代

「人は演ずることによって、本来の自分と外向けの自分とに分裂する。この二つの自己の間の距離を自覚し、様々な自己を演じることを楽しむのがラテン系の「乾いた文化」。一方「湿った文化」に属する日本においてはこの二つの自己が同一であることが誠実であるとして賞賛される。対外的な自己を遊ぶ術は、自己を絶対化することによる危険を回避し、外とのコミュニケーションを図る上で必要だが、高度に産業化された社会ではこの遊びの部分が排除されてきた。遊びの回復が二十一世紀の大きな課題の一つである。」

ごく短く約めてしまえば以上のような内容です。
さて、先日朝青龍の謝罪会見をテレビで見ていて、僕は山口昌男のこの文章を思い浮かべてしまったのでした。
僕には彼の会見はなかなか立派なものに見えました。テレビの前であれだけ堂々と自分を分析し、語ることができれば、視聴者の多くも納得できるのではないか。
ところが、識者の方々のご意見はなかなか厳しい。口先だけの謝罪では許されない、心から反省しているところを示さなければだめだ、云々…
うーん、相撲は国技ですからね、しかも横綱ともなると、外国人力士であれ、あくまでも日本人的人格が求められてしまうのでしょうね。山口昌男の言うところの「外向けの自分と、内部の自分が同じものである」状態が、品格ある横綱としての要件ということらしい。相撲ファンに言わせると、土俵上でフェアに戦って勝てればそれで十分なんじゃないかという僕のような考えは間違っている、ということになるのでしょう。
しかし、山口昌男の言うような、「自己をいくつにでも分裂させて、文脈や状況に合わせて、複数の自己を演じる」ということは、処世術として誰にでも求められていることだし、また、誰でもそうやって社会生活を送っているのではないでしょうか。素のままの自分をいつでもさらけ出していたら、世の中渡っていけませんよね。
毎年秋になると高3の生徒を対象に、面接試験に向けた事前指導を行うのですが、そこで教えるのは、「いかに面接官に自分をよく見せるか」ということです。だって、生徒に対して「もっと志望校に入りたいという意欲を高めなさい」なんて言ったってどうにもなりませんから。面接指導とは演技指導なり。
場面に応じて自分を演じ分ける力というのは、社会人になるまでに鍛えなければならない大事な力だと思います。それができるのが「大人」なのであり、テレビの中の朝青龍は、僕には立派な大人に見えてしまったのですが、それでも彼を強く批判する人がいると言うことは、彼の「演技力」がまだ未熟だということなのか、あるいは批判する側があまりにも「日本人」でありすぎるということなのか…


今日も北村太郎の詩の一節を引用して終わりたいと思います。

きげんがよくないくせに
にこにこ笑っていたりする
顰めっ面をしているけれど
内心ほくほくしているのかもしれない
偽善も偽悪も
かんたんに見分けられそうで
じつはそんなにやさしくはない

(「人生の一日」より)