にぎやかな悲しみ

今日、仕事を終えて帰宅する時の出来事。
寒くて暗いホームで15分ほど待ってやっと来た電車に乗って、すぐに『続・北村太郎詩集 (現代詩文庫)』を開いて読み始め、ふと目を上げたときにはもう二駅も先まで乗り過ごしてしまっていたのでした。今の職場になってから約7年。こんなこと初めてです。単線で本数の少ない田舎の電車なので、ヘタをすると戻るのにまた何分も待たされることがあるのですが、今日は幸い反対のホームで逆向きの電車が待っていました。
北村太郎の詩には、くり返して詠みたくなるようなフレーズがしばしば出てきます。そして、そんなところで立ち止まっている僕は、詩の文句を反芻しながらいつしか自分自身の物思いの中へと誘われてしまっているようなのです。
乗り換え駅に着いたことに気づかなかった僕は、いったいどんな物思いに沈んでいたのだったか…

チェンバロの音ってどうしてこんなにすばらしいのか
聴いていて涙が出そうになった
にぎやかな悲しみとでもいいたい音だった

それにしても
ピアノばかりが大流行で
チェンバロがあまり弾かれないのはなぜなのだろう
いろいろわけはあるのだろうが
ひょっとしたら
ピアノが発明されてから人類の文化はだめになったのではあるまいか
にぎやかな悲しみなんか必要としない時代が
もう二百年も前から始まったのではないか

(「ピアノ線の夢」より)

ピアノの時代とチェンバロの時代、何かが決定的に違う。
現代の抱える問題の多くは、チェンバロの時代に戻ろうとすることで解決に向かうのではないだろうか…


明日は午前も午後もオーケストラの練習。
オーケストラも楽しいけれど、チェンバロを交えたこじんまりしたアンサンブルもまたやってみたいなあ。