シニカルで、暖かい視線

プレーンソング (中公文庫)

プレーンソング (中公文庫)

いきなり僕にとってはどうでもいいような猫の話がだらだらと続くし、しかもやる気のないようなしまりのない文章だし、もう最初の10ページくらいのところで投げ出そうかと思ったというのは事実です。しかし保坂和志『書きあぐねている人のための小説入門』はなかなか面白かったし、この作品はその中でも何度も引き合いに出されていてぜひ読みたいと思っていたものだったので、もう少し先までと思って読んでいるうちに読んでいることがだんだん心地よくなってきて、読み終わったときには「今度は保坂和志のどの本を読もうか」と考えているのでした。
心地よいと書きましたが、それは登場人物たちが最後の場面で鎌倉の海水浴場に出掛けて行き、ゴムボートを借りて汐に流されながらとりとめのない会話を楽しむ、そんなときの心地よさに通じるものが文章を読む行為の中から生まれてくるということなのです。かといって、この小説がムードだけのBGMのようなものなのかというと、そういうものとは明らかに違う。
いったいこの小説のどこが面白かったのだろうと振り返ってみたときに一番に思い出されるのが「僕」と他の登場人物との会話です。例えば「ぼく」の競馬仲間の一人である石上という人物は、キャラクターとしても魅力的だし言ってることもどことなく飄逸な味がある。しかし、そうした石上さんと「僕」との会話そのものにこの小説の一番の面白さがあるのではありません。会話の一方の当事者でありこの小説の視点人物でもある「ぼく」が、進行中の会話に対して観察者として向けるまなざしがこの小説に一種の深みをもたらしているのです。

 石上さんに仕事でイギリスに行くと言われてみると、ぼくは石上さんの仕事が何だったのか思い出せないで、イギリスまで行くような仕事だったっけと訊いてみると、石上さんの方も、
「そうなんだよ。僕もイギリスに行けるような仕事があるなんて思っていなかったよ」
 と、グラスのビールを飲みながら他人事のように言ってから、その仕事のことを指して、
「言わなきゃいけないの?」
 と言って、またビールのつづきを飲んでいるので、ぼくの方も別にその辺はどうでもいいと返事をしたのだけれど、
「まあ、たいした手間じゃないよ」
 と言ってから、石上さんにしてはいつもよりずっと事務的な口調で、つまり今ある女子高の学校紹介ビデオを作っていて、そこの修学旅行のようなイギリス旅行をそのビデオに入れることになったので、担当社員としてついて行くことになったのだという説明が出てきた。そういう誰がしゃべっても同じになるような説明をし終わると調子が戻って、
「時代だよ」
 と言って、ぼくの同意を促すような間をとってから、
「僕なんかの頃には、高校生が外国行くなんて考えられなかったもんな。
 だいたい、海外旅行がまだ自由化されていなかったんじゃないか」
 海外旅行の自由化なんてことを持ち出すのが石上さんらしくて横で笑ったら、石上さんは調子にのって、
「本当だよ、おまえ。
 台湾バナナとかとかね、オレンジとかね。輸入の自由化の歴史ってものがあるんだから。あいつらは、そういうのをゼーンブ、ムカシッから自由だったと思ってんだッ。
 俺たちんときは、輸入版のレコードは高いしさあ、自由じゃないもんばっかりだったんだぜ。
 あいつらにはかなわねえよ」
「かなわない」とか「弱る」とか、そういうのは石上さんの口癖でつまりどうとも思っていないのだから結局どうでもいいというように笑ってから、「でもね」とそこでもう一度力を入れ直して、
「セーフクで行くんだって。アハハハ、笑っちゃうよ」
 と言って、やたらと気持ちよさそうな馬鹿笑いをしていたのだけれど、…

この場面の会話の面白さをわかっていただくためには、もっと先まで引用したいところですが、長くなりすぎるのでやめておきましょう。この作品の会話は当意即妙で気のきいたせりふの応酬などというのではまったくなく、奥深い内容が隠されているわけでもない、にもかかわらず読んでいて決して退屈なものではなく、どことなくおかし味を漂わせたものであることを感じていただけたでしょうか。こうした部分の面白さは登場人物の発するせりふそのものにあるというよりは、筆者による会話場面の切り取り方の方にあると言ったほうがよさそうです。
前にも書いたように、この小説は「ぼく」の視点から書かれており、特に競馬仲間である石上さん・三谷さんとの会話場面では「ぼく」の観察眼の鋭さが際立っているように思います。それはシニカルな眼差しであり、また(矛盾するようですが)対象への暖かい眼差しでもあります。そうした眼差しによって描き出された登場人物たちとの会話は、どことなく滑稽で、心地よさを感じさせもするのです。
まったくなんでもないようなせりふに、「ぼく」の視点から光を当てることによって、それらのせりふの一つ一つがいとおしいもののように思えてくる。まったく何事も起こらない小説を読み終えたときに感じた、うまく言葉にならないけれども確かに自分の中に存在していた不思議な充足感のようなものは、そのあたりから生まれてきたものなのかもしれません。