古文の教科書

初対面の人に職業を訊かれて答えると、次に続くのが次の質問。
「古文も現代文も、両方教えるんですか?」
この質問、今までに何十回されたかわかりません。どこの高校でも国語の先生は現代文も古文も教えていると思うんだけど、教わる側には、この先生は現代文のセンセイ、あの先生は古文のセンセイというイメージが出来上がってしまうんでしょうか。確かに理科だったら生物の先生、物理の先生、社会だったら日本史の先生、地理の先生というふうに、専門が決まっていますからね。
同じように、国語の教員もどっちかの専門のセンセイになれるとしたら、僕の場合は絶対に現代文。そもそも近・現代の小説に興味を持って国語の教師になったわけだし。正直言って古文(特に女流文学)にはいまだに苦手意識があります。でも、そんなこと言ってられないのが現実。やる以上は面白い授業をやりたい。

検定絶対不合格教科書古文 (朝日選書 817)

検定絶対不合格教科書古文 (朝日選書 817)

本屋でこの本を見つけたときは、迷わず買ってしまいました。どうして古文の教科書は僕が高校生だった頃とかわりばえしないんだろう、もっと斬新な教科書が出てきてもいいのにというのは、毎年教科書採択の時期(そろそろ今年もその時期ですが)になるたびに感じてきたことです。
どこの教科書会社も同じような作品を掲載しているという現実が、著者の言うように「国家の意図」から逃れられない結果であるという側面には注意を払う必要があるでしょう。しかし、現実には教科書の内容にはかなりの程度、我々国語の教師自身の意向が反映され、その結果、どの出版社の教科書を採っても大差はないという事態を招いているようにも思います。
実際、少ない授業時間数の中で、一般教養として「枕」「徒然」「伊勢」「平家」くらいは読ませたい、「万葉集」「古今集」も教えたい、大学受験を控えた生徒のためにはある程度は中古の文法事項を理解させて「源氏」も「桐壺」くらいは読んでおきたい、などと考えると採り上げる作品の範囲はおのずと決まってきてしまうのです。田中貴子の主張するように、古典をそういう狭い枠の中に閉じ込めてしまうことには問題があるでしょう。しかし、たとえば江戸時代の芭蕉西鶴でさえ読まずに卒業していく生徒だって少なくないんですよ。
もしこの『検定絶対不合格教科書』が検定をパスしたとしても、これを採択する学校は限りなくゼロに近いでしょう。これを読ませる余裕があるなら、先に芭蕉西鶴を読ませたいと考えるのが普通でしょうから。「第二部 教科書には載らない古文を読む」に挙げられた作品が、生徒の琴線に触れるか、ということも疑問です。「へぇー、こういう作品もあったのか」という、それこそ「トリビア」として面白がられ、それで終わってしまいそうな気がします。
僕にとって、この本で一番面白かったのは「第三部 論説編―国語教科書の古文、ここがヘン!」でした。現行の「学習指導要領」や改正された「教育基本法」の抱える問題点などに言及し、なるほどと思わせる箇所は少なくありません。面白い授業のためのヒントはといえば…

私がしばしば口にする「古文のおもしろさ」とは具体的にどういうものか、とたずねられることがあるが、本論にそくしていえば、「受験や教育にしばられない、読み手個人の生活や文化とリンクしていろいろな読みが可能なこと」と言ってよいだろうか。

「受験」にも「教育」にもしばられている教室で日々勝負している国語のセンセイの立場は苦しいわけですが、「いろいろな読み」というのは面白い授業のためのキーワードではないかと考えています。もちろん現代文であろうと古文であろうと同じこと。これについては、いつかまた教科書の問題と絡めて書くつもりです。