小津安二郎を観る(その2)

昨晩DVDで 東京物語を観ました。これで小津安二郎の晩年の代表作をほぼ観終わったことになります。
麦秋』『お茶漬けの味』『東京暮色』『彼岸花』『お早よう』については、前に簡単にコメントを書きました。今回はその後に観た五つの作品について、感じたことを少々書いておきたいと思います。


『晩春』…娘というのはあれほど父親を一人にさせられないと思うものなのか? それでいて父親の再婚をあれほどまでに嫌悪するものなのか? 紀子(原節子)という女性の内面とその行動を理解させるための、一切の事情は語られることなく、見る者の想像に任される。母親をどういういきさつで亡くしたのか? 父親(笠智衆)の助手(だったかな?)の服部に対してどういう感情を持っていたのか? すべては謎のままだ。その服部(すでに他の女性と婚約している)と二人で湘南の海沿いをサイクリングする場面で、潮風と太陽の光を浴びた原節子の見せるあまりにも無邪気な笑顔には、一種の凄みを感じさせられる。江ノ島にまだ灯台はない。
『早春』…この映画でも、今と比べたら別世界のような半世紀前の湘南の風景が強い印象を残す。(江ノ島には灯台が建っている!)そして、問題のあの夜の、池部良の背中に回した岸恵子の手。その指先。(そしてその直後に映る、黙って首を振る扇風機の何と雄弁なこと!) 自分の過ちを悔い、地方転勤を機に人生をやり直そうとする池部良と、そんな夫を受け容れる覚悟を決めた淡島千景が向き合うシーン。外の工場の煙突の大写しは、赤や黄色を塗ったらキリコの絵になってしまいそうなほどシュール。
秋日和…厳しく言えば、『晩春』の焼き直しのよう。父親を一人にさせられずに結婚を渋った原節子がここでは母親になり、その母を一人にできない娘(司葉子)が結婚を躊躇する。どちらも親の再婚話と絡めて娘の結婚を周りの人間が画策する。歴史は繰り返す。
秋刀魚の味…これも悪く言えば、手だれが慣れた手つきでそつなく仕上げたという印象の作品。小津らしさを存分に楽しめるものの、既視感は免れない。
東京物語…これが小津の代表作とされるのは頷ける。個々の人物像を巧みに描き出しながら、作品を全体として一つの構築物として立ち上がらせ、家族とはどういうものかという普遍的なテーマを明確に浮かび上がらせている。つまりは完成度が高い。
しかし僕はあえて、この映画を観て率直に感じた物足りなさについて述べておきたい。それは実はこの映画の完成度の高さの裏返しとも言えるのだけれど…
端的に言えば、この映画はわかりやす過ぎる。すべての細部が無駄なくテーマと結びついてしまっている、というより、他の小津の映画にしばしば見られるような、話の本筋と直結せず多義的な解釈を許すシーンが少ないのではないか。それは見る側が想像力を働かせる余地が少ないということだ。
しかも、テーマに対する模範解答を、登場人物自身が語ってしまっている。血のつながる家族も結婚して新しい生活が始まれば皆それぞれのエゴを優先してしまうこと。そして、一番頼りになるのが、戦死した息子の嫁という血のつながらない人間だったりすること。しかし、その未亡人も、いつまでも夫のことを忘れない「いい人」ではいられないこと。これらが、笠智衆の口から、原節子自身の口から、語られてしまうのだ。だから、普通の観客はこれを観て、わかったと納得し、安心して涙腺を緩めることができるのだろうけれど、天邪鬼の僕にはむしろその点が不満に思えてならない。一通り観終えた今となってみると、謎は謎として残してくれた『東京暮色』や『晩春』の方が魅力的な作品のような気がしてくる。


…とまあ、映画通でもない僕が、エラそうなことを書き連ねてしまいました。(いろいろ感じたこと、考えたことのホンの一部ですが…)
ともあれ、小津の映画は、もっとさかのぼって古い作品も観たいと思いますし、また、今回観た作品をまた見直すこともあるだろうと思います。そのときはまた新しい発見をし、違う印象を持つかもしれません。