へろへろ

妻と娘が西友ストアでその日の晩のおかずを買っている間、僕は外の特設古本売り場の前をうろうろして、面白そうな本を物色していました。ちょうど授業で中原中也の「サーカス」を読んでいたときだったので、「山口――中也で燃える町」という文章が気になったのと、「詩人 井伏鱒二」も読んでみたいと思い、寒い屋外で背中を丸めて文庫本を読んでいた売り場のおじさんに270円を渡してこの本を買ったのです。
こういう雑文集は、読みたいところだけ読んで終わりにしてしまってもよいのですが、ねじめ正一の文章の面白さに引き込まれて、結局全部読んでしまいました。
井伏の詩についてはこんなことを言っています。

 井伏さんは詩で自分を見つめたり、社会を見つめたりするのを禁じている。見えすぎる自分に目をつぶろうとしている。…見えたものを詩のコトバにして置いていくのが照れくさい。これが井伏さんの詩に向かう態度であり、小説とはまるで違うところなのである。私が井伏さんの詩をへろへろだなあと感じるのも、この照れがあるからだ。こういうへろへろはよいへろへろである。へろへろに向かって詩のコトバを傾けている。
 井伏さんは小説ではきちっきちっとコトバを置いていった人であった。小説に溺れない人であった。ところが詩では溺れようとしている。…こういうとき、小説家の見えすぎる目は遊びの邪魔である。自分がへろへろになるために詩を書いているのに、見えすぎるとへろへろになれないからである。
 井伏さんはきっと、すごく詩が好きだったのだ。もしかしたら小説より好きだったのだ。…

この部分、なかなかうまいことをいうなあ、さすがに詩人だなあと感心してしまいました。僕も、井伏鱒二は本質的には詩人だと思っています。ごく初期の頃はその小説も「へろへろ」していたのです。よく言えば叙情的、悪く言えば感傷に溺れてしまっているようなところがあって、小説というより散文詩のようだったのです。そんな詩的な作品をうぶな大学生だった僕は身震いするほど感動しながら読んで、井伏を卒論のテーマに選んでしまったくらいです。
次第に大家になってしまった井伏は「へろへろ」した作品を書かなくなります。『黒い雨』の作者は首に文化勲章をかけられて、「へろへろ」などしていられなくなってしまったのです。
晩年になって新潮社から出した『自選全集』からは、僕がかつて身震いしながら読んだ作品のかなりの部分が切り捨てられてしまいました。若さゆえの感傷は、老大家の目には照れくさくて我慢がならなかったのでしょう。このとき「山椒魚」の最後の部分をカットしてしまったことは大いに物議を醸したわけですが、あれだってねじめ流に言えば、「へろへろ」の切捨てにほかなりません。
僕は井伏鱒二には最後まで「へろへろ」した作品を書いて欲しかったと思っています。それが彼の持ち味だったと思うからです。晩年の玄人受けする小説や随筆はそれはそれでよしとして、一方で『厄除け詩集』のような詩集をもっと残して「へろへろ」したところも見せて欲しかったと思うのは僕だけでしょうか?

厄除け詩集 (講談社文芸文庫)

厄除け詩集 (講談社文芸文庫)