木枯らしの東京にて

mf-fagott2006-11-12

東京では今年初めてという木枯らしの中、日比谷野外音楽堂へ。
教育基本法改悪、反対!」
と叫んでから、今度は渋谷へ。目的はベルイマン監督の映画サラバンド。映画に疎い僕は、映画界にイングマール・ベルイマンなる「巨匠」が存在することなど全く知らなかったのですが、11月7日の朝日の夕刊の文化欄で、バッハの無伴奏チェロ組曲などの名曲を随所に使ったこの映画について、作曲家林光が評した文章を読んでぜひ観てみたいと思ったのです。
映画は、残念ながらこの名曲(僕はこの曲が好きで、ときどきファゴットで吹いてみたりします)を期待していたほどは堪能させてくれませんでしたが、家に帰ってあらためて林光の評を読むと、「(この組曲の中のサラバンドは)テーマ音楽風に扱われてはいない。むしろ、シーンを締めくくる間仕切りのように、ときたまごく短く顔を出すだけで、けれどもそれはとても印象的だ」とあるので、僕の期待の仕方が見当はずれのものだったということになりそうです。
また、新聞には父(ヘンリック)と娘(カーソン)がチェロを構えて向き合っている写真が載っているので、二人の鬼気迫るような二重奏の場面を勝手に想像してしまいましたが、これもまた裏切られてしまいました。映画の中では、二人が唇を重ねる場面はあっても、音を重ねる場面は一度も出てきません。
父親ヘンリックは娘カーソンを異常なまでに溺愛し、その音楽的才能に過剰に期待してソリストへの道を歩ませようと自ら厳しいレッスンを娘に強います。そんな父に対する愛と憎しみの間で苦しむカーソンは、最終的には父の望まないオーケストラ団員への道を選んでしまいます。そこで悲しみのどん底に突き落とされたヘンリックが娘に弾いてくれと頼むのがバッハのサラバンドなのです。(ところでカーソンが参加するのは、クラウディオ・アバドが22歳以下の若者を集めて編成するオーケストラだというところで、僕はつい最近聴いたばかりのマーラー・チェンバー・オーケストラのことをすぐに思い浮かべてしまいました。)
この映画の大きなテーマの一つが、カーソンとヘンリックの、またヘンリックとその老父(ヨハン)の、つまり血のつながる親子同士の愛憎の問題であることは確かです。さらに、ヘンリックを苦しめ続けている2年前の妻との死別、それからヨハンとかつての妻マリアンとの30年ぶりの突然の再会、つまり二組の夫婦の愛のあり方の問題。そしてさらには「老い」の問題。この映画は、これら普遍的なテーマを絡み合わせながら、人間の救いがたい心の闇を描き出そうとしているかのようです。そして、「サラバンド」にしてもブルックナーの「第9シンフォニー」の「スケルツォ」にしても、音楽はこの映画の中では人に救いを与えるよりは、癒しがたい人の心の「闇」そのものの表現になっていると感じられました。
ただ、この映画にかすかに漂うエロティシズムはこの「闇」をほのかに明るく照らし出しているようです。正確には覚えていませんが、ヨハンがマリアンに「夫婦にどうしても必要なのはお互いの思いやりと、エロティシズムだ」というような意味のことを語っていとことも印象に残っています。
教育基本法改悪、反対!」を叫び、さらに重いテーマの映画まで真剣に観て来て、すっかり疲れきって家に帰ると、娘が妻に叱られながらブルグミュラーを練習しているところでした。やれやれ…