港の見える丘にて

「部活動指導の休日出勤が続くから、今日は早く帰ろうかな」という僕のつぶやきが職場の先輩に届いて、「じゃあ、これをあげるよ」と神奈川近代文学館で実施中の「俳句―その魅力展 子規 漱石 虚子 井泉水 山頭火」の招待券をいただきました。そこでさっそく、半日の有給休暇を使って行って参りました。(かつてはこういうのは「年休」ではなく、「研修」の扱いで行けたのに…)
会場はいかにも俳句を嗜んでおりますという雰囲気漂わせた老男女で賑わっていました。特に子規・虚子から兜太・狩行までのコーナーは、手帳片手に熱心に見入る男性、隣のお友達に「あ、この兜太って人は何でもアリの人でね…」などと薀蓄を傾けるご婦人などで活気づいておりました。
ところが後半の井泉水・山頭火などの、つまり自由律俳句のコーナーになると、がらんと人気がないのです。ほとんどの人が素通りに近い感じでした。出口近くに『層雲』明治44年、つまり今から95年も前、荻原井泉水が創刊した自由律俳句誌)の最近のバックナンバーが「ご自由にお持ち帰りください」という張り紙の貼った台の上に2冊だけ残っていたのが、ますます寂しさをつのらせているかのようでした。(もちろん、2冊のうちの1冊は頂いて帰りました。)
皮肉なことに、(後でチラシを見てわかったのですが)この展覧会は「荻原井泉水の長男・荻原海一氏から、約1万点に及ぶ膨大な資料(荻原井泉水文庫)の受贈を記念し、井泉水没後30年にあたる本年、俳句の総合展として企画しました」ということなのでした。(だったら井泉水関係の資料をもっと前の方にまとめて見せる配置にしないとまずかったんじゃないかなあ。展覧会って、後半の方は疲れてきて見方も雑になってしまいがちですからね。)
今や有季定型派が圧倒的多数を占める俳句界ですが、頂いてきた『層雲』を見ると、自由律の無季俳句を熱心に作っている方も少なくないんだなあと認識を新たにしました。裏表紙の「編集手帳」に書いてあった次の一節が印象に残りました。

 ルノアールは、その白人の白い肌の透明感を出すために、まず静脈の青を下地に描き、その上に白や肌の色を重ねていったという。完成された絵には、静脈の青は塗り潰されているので、血管はうかがい知ることは出来ぬのだが、白い絵の具の下には確実に血の通う血管が走っているのだ。
 目に見えぬリアリティとは、そんな一見愚にもつかぬところに大切な真がある。…
(青久)

リアリティを追求する上でのこうした方法論は、有季定型派の俳句にも通じるのではないでしょうか。