異色の「俳句入門」

寺山修司の俳句入門』という書名を発見して、僕は一瞬目を疑いました。
「え?! あの寺山修司が俳句の入門書を書いていたのか…」
寺山修司といえば、

 ラグビーの頬傷ほてる海見ては
 便所より青空見えて啄木忌
 わが夏帽どこまで転べども故郷

を残した俳人として、また短歌の方では、

 ふるさとの訛りなくせし友といてモカ珈琲はかくまで苦し
 マッチ擦るつかのま海に霧ふかし身捨つるほどの祖国はありや

などの作者として、僕の中では以前から決して小さな存在ではありませんでした。(演劇に疎い僕にとって、そっち方面については「天井桟敷」の主宰者という知識がある程度ですが。)

それにしても寺山修司が俳句に熱中したのは十代のほんの一時ではなかったのか。
それに、俳句に「入門」するとは「結社に入る」とほぼ同義であるというのが現状なのに、寺山修司が特定の結社に深く関わっていたという認識は僕にはありませんでした。その寺山修司が「入門書」を書くはずがないではないか。

寺山修司の俳句入門 (光文社文庫)

寺山修司の俳句入門 (光文社文庫)

読み進むにしたがって、「そういうことだったのか」と了解しました。これはやはり寺山修司が俳句の初心者に向けて書いた本などではないのでした。寺山によって書かれた俳句に関する文章の中に齋藤慎爾(俳人、巻末の解題も担当)による入門者向けのコラムを織り込んで、「入門書」の体裁はとっているものの、実態は寺山修司の俳句文学への手引きといった趣の本なのでした。
そ、それにしても文学青年としての寺山の何と早熟なこと! こ、これが高校生の書いた文章なのか! 「青校新聞」に寄せた記事や同人誌で行った座談会の発言などをみても、俳句への深い理解、当時の俳壇に対する厳しい批評眼を見せつけられ、驚いてしまいます。
そんな寺山が二十歳そこそこで俳句と「絶縁」し、他の表現領域に移って再び俳句へと戻ってこなかったのは、俳句好きの者にとっては残念でなりません。

  カルネ――〈俳句絶縁宣言〉
夏休みは終わった。僕は変わった。
しかし僕は変わりはしたが、立場を転倒したのではなかった。
青年から大人へ変わってゆくとき、青年の日の美しさに比例して「大人となった自分」への嫌悪の念は大きいものである。
しかし、そのせいで立場を転倒させて、現在ある「いい大人たち」のカテゴリイに自分をあてはめようとする性急さは、自分の過ちを容認することでしかない。
僕が俳句をやめたのは、それを契機にして自分の立場に理由の台石をすえ、転倒させようとしたのではなく、この洋服がもはや僕の伸びた身長に合わなくなったからである。
そうだ。僕は二十才。五尺七寸になった。
 …
ふたたびぼくは、俳句を書かないだろう。
 …

(「青年俳句」昭和31年12月)

つまり寺山は俳句と「絶縁」したとはいえ、俳句に熱中していた自分自身も、俳句という形式そのものをもこの時否定したわけではありません。彼の表現への意欲が、俳句という小さい器からこぼれ始めてしまったのです。だからこそ自分たちが始めた『牧羊神』という同人誌を見捨てることなく、信頼する仲間たちに後を託すのです。そして、実作者ではなくなった後も、言わば俳壇の外の人間として俳句について発言を続けます。
この本は、「絶縁」以後のそれらの文章も含めた、寺山の俳句観の集大成といった趣を持った本だと言えるでしょう。書かれてから既に何年も経っていながら、今の俳句界に対する問題提起とも読める興味深い文章が並んでいます。その中でも僕は寺山が「結社」について触れたと思われる部分について、もう少し書きたいのですが、長くなりそうなのでそれは次の機会に回したいと思います。