ボウフラとホモサピエンス

今朝、植木鉢に水をやろうとして外に出たら、あっという間に蚊に襲われたのに、夕方自転車の手入れのためにしばらく外にいても、全く蚊は近づいてきませんでした。朝は少し蒸し暑かったのに、夕方は急に涼しくなった、その差でしょうか。蚊に悩まされる季節もそろそろ終わりが近いようです。
ところで今日『俳句』9月号を読んでいたら、有馬朗人「特別作品50句 マルコポーロの夢」の中に、次のような句がありあました。

孑孑の理にかなひたる踊かな

いかにも科学者の眼を感じさせる、印象的な句です。有馬朗人には「孑孑や神は不思議なものを作る」という句もあって、僕はボウフラを見るたびにこの句を思い出すのですのですが、今度ボウフラを見たときは「理にかなひたる」というフレーズが浮かんできそうです。
さて、『俳句』をさらに読み進むと、こんな句も見つかったのです。(小宮山繁子「ホモサピエンスの中の一句)

孑孒とホモサピエンス水一重   

水面を隔てて対峙するヒトとボウフラが、どちらも同じ生物であることの驚きを詠んだ句なのでしょうか。「水一重」とは「紙一重」をもじった造語だろうと思います。
ところで僕が「おや?」と思ったのは、二つの句の「ボウフラ」の表記の違いです。
孑孑孑孒、明らかに字の形が違います。そこで『広辞苑』で確かめてみると、確かに両方の表記があるのです。そこでさらに『広漢和辞典』で調べてみると、「孑」の熟語として「孑孑」が出ていて、次のような説明がありました。

①一つだけ抜け出ているさま。孤立のさま。ひとりぼっち。
②小さいさま
③俗に、ぼうふらをいう。孑孒(ゲッキョウ)を誤ったもの。

というわけで、本来は「孑孒」が正しい表記ということになるようです。ちなみに、それぞれの漢字の単独での意味は、「孑」が「右のひじがない」、「孒」が「左のひじがない」ということです。こんなことを知った上で、ボウフラのあの不思議な形を思い浮かべてみると、「なるほど」と思うと同時に、小宮山繁子の句の真意にも少し近づけたような気がしてきます。