猫の哲学者

大人のための絵本、といった趣の本。

猫の建築家

猫の建築家

じっとしていても汗の噴き出す土曜の午後、まず本文を読んでから、もう一度最初から静謐な挿絵をぱらぱらと眺めているうちに、夏ばて気味の僕は少々居眠りをしてしまったようです。
夕方になってようやく日差しが柔らかくなってから、1時間ほど自転車に乗って他人の家の建物や庭などを眺めてわが家に戻ると、もう一度、最初からゆっくり読んでみました。いったいこれは何を言いたい本なのだろう。

主人公は猫。何度生まれ変わっても建築家になっている。

したがって、
いつも「造形」というものを考えている。
そして、
つねに「共生」というものを意識している。

猫は考える。

理由もなく形が作られ、機能もなく存在するものは、おそらくこの世界にない。
ただ、造られたままの形ではなく、
造られたときの機能を果たせなくなくなったものが、
幾つか残っているだけだ。
「しかし、何故、残っているのだろう?」
「どうしてすぐに消えてしまわないのだろうか?」
そう考えるとき、猫はいつも「美」という理由を思い出す。

ものに機能があることに議論の余地はない。しかし、機能を失ったものが残っているのは「美」のせいだろうか。猫たちは「美」に関して議論する。

「それはどこにあるのか」
「本当に価値のあるものなのか?」
「価値がないものなら、こんなに議論になるはずがない」
誰も「美」の意味を説明できない。

猫(たち)は、建築家であるよりも、哲学者であるのかもしれません。美とは何かという、哲学の古典的な課題に真摯に立ち向かいます。と同時に、もっとも今日的な問題にも直面しているようです。次の一節の難しさは、最初に出て来た「共生」という言葉をヒントに解きほぐせるように思うのです。

しかし、こうした自然の中に埋もれていると、自分の存在の小ささに気づかされる。
それが、何度もの生まれ変わりを通して、ますます感じるところである。
そして、それが、建築家としてとても大切な気持ちではないか、と猫は思うのだ。
何故なら、造ることは、立ち向かうことではなく、
造ることは、何かを許すことなのだ、と感じているからだった。

「造ること」は「許すこと」とはどういうことでしょう? ここに「共生」という考え方が隠されていると言えないでしょうか。
建築家とは哲学者であり、また同時にエコロジストでもなければならないということかも知れません。

詩情を湛えた文章と絵が、静かで優しい思索にいざなってくれる本です。


■追記(12/7) この本、最近文庫になったようです。
猫の建築家 (光文社文庫)