金魚すくいの薄い紙

西原天気氏より句集『けむり』が届いた。
数年前、「週刊俳句」に駄文を寄せていた縁から、このような幸運に恵まれることになった。嬉しい。


「俳句的日常」というのが西原氏のブログの名前だけれど、『けむり』に収められた俳句は総じて「日常的俳句」と呼ぶにふさわしい、などと言ったら失礼になるだろうか。しかし、やはりそんな呼称がふさわしいように僕は思う。
西原氏の俳句はどれも、実にありふれた素材で成り立っている。俳句を作るためにはるばる吉野の花の盛りを訪れましたとか、こんなに感動的な出来事に遭遇しました、というような句は一つもない。


朝顔やべつべつに干す紐と靴
釣堀の男の胸のボールペン
晩春の地面に線を引く遊び



誰のそばにでも転がっている、平凡な日常を切り取った句たち。
もちろん、だからと言って、それらが誰にでも作れる句だと言っているのではない。ありきたりな日常を句に仕立て上げるにはそれなりの技の修練が必要だ。


僕は『けむり』を読みながら、なぜか縁日の金魚すくいを思い浮かべてしまった。西原氏の、平凡な日常から佳句を生み出す手際は、金魚すくいの要領に通じるのではないか。
金魚すくいのときに使う、薄い紙を張った小さな団扇みたいなやつ(今それをネットで調べて、「ポイ」と呼ぶことを知ったばかりなのだが)、そのポイの紙を破らないように金魚をすくうのはなかなか難しい。狙った金魚を追いかけまわしてしまっては、ポイはあえなく破れて使い物にならない。こっちから金魚に向かっていくというより、近づいてきた金魚をさっとポイにひっかけるようにすくい上げ、いち早く器に移す。ポイを持つ指先にも、手首の辺りにも決して力を入れすぎないようにして… どうもそのあたりの気息が、西原氏の俳句作法に通じているように思えてならない。


金魚はありふれた日常、それをすくい取る小さくて薄い紙が俳句という形式、そんなことを考えてしまった。


ところで、既に誰かが言っていることかもしれないけれど、西原氏には「紙」の出てくる句が多いようだ。


はつなつの雨のはじめは紙の音


これが句集の冒頭に置かれた句。以下、


初しぐれ紙の匂ひのする町に
金蝿のとびつく紙の天守
寒き夜を紙のごとくに眠りたる



など、「紙」という文字を含む句が14句というのは、「頻出」と言っていい数字だと思う。
『けむり』が送られてきて、まず驚いたのが、この本には背表紙がなく、中の紙がむき出しになっているということ。なんともユニークでしゃれた造本だ。書架に普通に立てた状態でも、それが紙を束ねて作られたものであることを強く主張し続けるという仕組みなのだ。
インターネットを駆使しての活躍が目覚ましい西原氏だけれど、「紙」に対する思いはやはり格別ということなのだろう。