荒川洋治を「なるほど」と思って読む。

詩とことば (ことばのために)

詩とことば (ことばのために)

荒川洋治は詩のことばと散文を比べて、

散文は「異常な」ものである

と言う。「え?」と思う。それは逆じゃないのか、と。
詩のことばは、日常の用法から逸脱した使われ方をする。だから、詩のことばは異常である、と言うのが普通じゃないのか。
ところが、読んでみると、なるほどと納得する。
例えば、荒川洋治

白い屋根の家が、何軒か、並んでいる。

という散文について、人はいつでもこのような順序で知覚するわけではないと言う。実際は「家だ。白い!」と知覚したのに、多くの人に伝わりやすい順序に組み替えたのが上の散文だと言う。だから散文は「つくられたもの」「操作によるもの」であり、「人間の正直なありさまを打ち消すもの、おしころすもの」ということにもなる。さらに別のところでも、散文について次のように言う。

個人が体験したことは、散文で他人に伝えることができる。その点、散文はきわめて優秀なものである。だが散文は多くの人に伝わることを目的にするので、個人が感じたこと、思ったことを、捨ててしまうこともある。個別の感情や、体験がゆがめられるおそれがある。散文は、個人的なものをどこまでも擁護するわけにはいかない。その意味では冷たいものなのである。

今まで、散文というものをこのように理解したことはなかったと思う。なるほど、散文が「異常」なものとはこういうことだったのか。では、詩のことばはどうなのか。

詩のことばは、個人の思いを、個人のことばで伝えることを応援し、支持する。その人の感じること、思うこと、体験したこと。それがどんなにわかりにくいことばで表わされていても、詩は、それでいい、そのままでいいと、その人にささやくのだ。

つまり、散文のちょうど逆。なるほど、と思う。散文が普通で、詩のことばが特殊なのだという思い込みが、ひっくり返ってしまった。まさにコペルニクス的転回。
なるほど、と思ったのはこれだけではない。最近、現代詩が沈滞しているのは、詩人達にも原因があると言い、次のような発言が続く。

詩の朗読だけはさかんだが、その詩のことばはいつものものと変わらない。それを声に出しても詩は変わらない。詩は一遍の詩のなかにおいて実現されるものである。文字の詩のなかでのたたかいを回避する朗読に、逃避以外の意味があるのだろうか。詩人たちの間に流行の俳句づくりも同じだろう。

なかなか手厳しい。最近のちょっとした朗読ブームに対してもこういう批判的な見方があったのか。
でも、考えてみればなるほどその通りだ。詩は文字にして読者に手渡す。読者は文字で書かれた詩と向き合って、能動的に自分なりの読み方を見つけていく。これが現代詩の正しい読み方だろう。耳から入ってすらすらわかる詩ばかりもてはやされるのは、詩の衰退なのである。
詩人の俳句だって、現代詩の沈滞を憂う立場からみれば、面白がっている場合じゃないだろう。


荒川洋治の洞察力の鋭さはタダモノじゃない。自分の感性を信じて、自分の頭で考えて書いている。荒川洋治の本を読むと、いつもそう思う。


それと、荒川洋治の文体は人に感染る。でも、伝染ったからといって害はないので気にすることはないのだ。