「考える力」

日頃から「考える力」について、あれこれ考えています。
「考える力」が大切だということはわかっていても、ではどうしたら「考える力」はつくのか、「考える力」がついたかどうかを何によって測るのかということになると、なかなか難しい問題になってきます。
ある問題について答えが出せるか出せないかの違いは、「考える力」の差から生じることもあるでしょうが、力が同じでも持っている知識量の差から答えが出せる出せないの違いが生じることもありえるでしょう。言い換えれば、「考える力」の中には知識の蓄積も含まれるということです。そうなると、学校で「思考・判断」「知識・理解」というふうに観点を分けて生徒の学力を評価することの妥当性も疑わしくなります。


かつて「朝日新聞」の論説委員だった轡田隆文『「考える力」をつける本』を読みました。この本が、例えば第Ⅰ部の2章(副題は「自分の頭で考えるための情報収集術」)で、新聞の切り抜きの方法などを紹介しているほか、自分の頭に情報をインプットするためのヒントに多くのページを割いているのも、「考える力」と「知識」とが不可分であることを前提としているわけです。
「考える力」をつける本―新聞・本の読み方から発想の技術まで
「考える」という頭の働きのなかでも一番本質的なのは、「問う」こと、それも「自分自身」に「問う」ことなのではないかと考えるきっかけとなったのは、車の中で聴いた小林秀雄の講演ですが、この本の中にも次のような一節があります。

自分自身に対する問いかけがなければ、考えたり、書いたり、しゃべったりするための資料はどこからも出てきはしない。
…混沌としたものの中から資料が、具体的な意味を持って立ち現れてくるのもまた、「問い」があってこそなのである。

「なぜ?」と問いかけつづけることによって、枝葉末節は整理されて、その底から、「考え」の本質というべきものが、ゆっくりと姿を見せてくる。
「考え方」とは、自らに「なぜ?」と問いかけながら深さを獲得してゆく方法ではなかったのか。

「考える」ことが自分に「問う」ことであるとすると、まさにそうした力を付けるために学校には「総合学習」という科目が置かれているのですが、これは様々な問題があって(一番の問題は、教員が忙しすぎる!)、趣旨を生かす形で理想どおりに機能していないのがほとんどの学校の実情です。学校において、「考える」力をつけさせ、それを正しく評価するというのはなかなか難しい問題ですが、できるところから地道に取り組んでいくしかないのだと思っています。

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