俳句総合誌に初めて投句したときのこと

 ずいぶん前から、何かきっかけがあれば書こうと思っていたのだが…


 僕が初めて俳句の総合誌に投句したのは2002年の秋。その当時刊行されていた「俳句朝日」という雑誌だ。その句は、


 台風の目を棒で刺す予報官


というのである。ご存知の方も多いと思うが、中原道夫の句に


 颱風の目つついてをりぬ豫報官


というのがある。あまりにも似ている。
 僕が中原道夫のこの句を知ったのは、投句はがきをポストに入れてから一月ほど経った休日。自宅近くの図書館で俳句総合誌(たぶん角川の「俳句」だったと思う)のバックナンバーを借りて、図書館近くのファミリーレストランで読んでいた時だ。その特集は、現役の俳人が自作の代表句数句を挙げて解説するというもので、中原道夫自選の句の中に、この句はあった。
 ショックだった。僕としては雑誌に投稿するのは新たなチャレンジだったし、「台風の目」には密かに自信を持っていた。一か月後には本屋の店頭で活字になった自分の句を発見するはずだった。しかし現実はそれどころではなく、僕の名前は盗作の前科者としてブラックリストに載ってしまって、今後いっさい入選は認められないということにもなりかねない事態に陥ってしまったのである。(実際はそんなことはなかったのだが、本当にそんな心配までしたことを覚えている。)
 たった十七文字の俳句において、こういうことが起こり得ることはわかるが、それにしても初めての投句でいきなりこんな不運に遭遇するなんて、俳句とは難しいものだと痛感した。(もっとも、もし僕の句の方が先に世に出ていたとしても、さほどの評価は得られなかっただろう。「つついてをりぬ」の方が予報官の動きを生き生きと、且つユーモラスに描いている点において、数段優れた表現であることは言うまでもない。)


 さて、こんな古い話を今更書く気になったのには、ワケがある。大岡信の『折々のうた』に、中原道夫の


 絨毯は空を飛ばねど妻を乗す


という句が取り上げられている。その解説文中に、「台風の目つついてをりぬ予報官」も紹介されていたのだ。それに気づいたのが、今日。
 「颱風の目」が収められている句集『顱頂』1993年(H5年)を読んだことがないのは確かだ。それで僕は、あの日、「俳句」のバックナンバーでこの句を初めて見たのだ、だから二つの句がよく似ているのは全くの偶然の出来事だとずっと確信していたが、その確信が少々ぐらついてしまったわけだ。岩波新書の『新折々のうた1』が出たのが1994年、僕が自分の「台風の」をつくる前に、中原道夫の「颱風の目」をここで読んでいた可能性は否定できない。そもそもこの本は朝日新聞のコラムをまとめたものなのだから、新聞の方で読んだ可能性だってあるのだ。読んだという記憶はすっかりなくなって、ただ発想の根っこだけが潜在的に残っていて、それが数年後に図らずも芽を出してしまったということがどうしてないと言えようか。

目の前にあるのは

 池澤夏樹個人編集による『日本文学全集』の第29巻は、「近現代詩歌」。その中の俳句を拾い読みしている。俳句の選者は小澤實。明治、大正、昭和の俳人50人を選び、その代表句を5句選んで口語訳と解説を加えている。
 この解説は文字数約180、大岡信の『折々のうた』の新聞掲載時の文字数と同じだ。(岩波新書では加筆されてやや長くなっている。)小澤實は大岡信の仕事を意識しないわけにはいかなかったのではないか。
 ふと、両者を較べてみようと思い立った。山口青邨


  玉虫の羽のみどりは推古より


はどちらにも取り上げられている。まず、大岡信

「推古」は推古朝のこと。この句は玉虫の羽のあの妖しいほどに美しい輝きを見た瞬間、飛鳥時代に作られた有名な玉虫厨子の宮殿部の金具の下に敷かれている玉虫の羽に連想が及び、目前の羽の緑を古代から変わることない輝きとして称えたのである。時を越えたみずみずしい輝きをとらえるのに歴史を介在させた所がこの句の眼目。法隆寺の玉虫厨子を実見しての句ならかえって平凡になってしまうのが面白い。(『第八折々のうた』より)

  次に、小澤實。

玉虫の羽のあざやかな緑は、推古時代より残っているのだ。
「推古」とは飛鳥時代の別称。法隆寺に蔵されている国宝玉虫厨子を詠んでいるのだ。厨子の上部、宮殿をかたどった部分には、玉虫の羽が貼りつめられている。その羽の緑の輝きがあせていないことに驚いている。古代の匠たちの技を偲び、たくさんの玉虫が飛び交う飛鳥の夏を思う。

 同じ俳句が、二人の鑑賞によって、全く異なる句になっているのがわかる。小澤實の眼前にあるのは法隆寺の玉虫厨子大岡信が「平凡になってしまう」という、まさにその読み方を採用しているわけだ。 僕は大岡信の読みに従いたい。

 

短歌に励まされる

 大岡信の『折々のうた』を読んでいて、こんな歌を見つけた。


 大方の誤りたるは斯くのごと教へけらしと恥ぢて思ほゆ    植松寿樹


 作者は中学校の国語の教師だという。同じような経験は僕にもある。大岡信は言う、「こういう教師に教わった生徒らは、言うまでもなく幸せだった。」と。生徒たちは幸せか? おそらく彼らは自分が幸せだとは自覚していないだろう。しかし、教師に対するこういう温かいまなざしの存在は、嬉しい。


 『折々のうた』では、こんな歌に出会った。


 棺桶に片足入れし老なれど片足でできることはしませう    野村清


 晩年の生き方の手本として、その時を迎えるまで心に留めておきたい。

 

新 折々のうた〈1〉 (岩波新書)

新 折々のうた〈1〉 (岩波新書)

 

 

新 折々のうた〈2〉 (岩波新書)

新 折々のうた〈2〉 (岩波新書)

 

 ■追記(11月16日)

 過去多くなりしとおもふ言ひがたく致しかた無く過去積りゆく  宮柊二

 大岡信いわく、「当人にとっては舌打ちと溜め息の元であるような過去が、別の人の目から見れば、かけがえのない豊かな蓄積であることさえある。」短歌にも励まされるが、それ以上に大岡信のこんな言葉に励まされる。肯定的な人生観。

 

太宰治と三島

 何年か前、文学散歩の仲間と三島の街を歩いたことがある。桜川という川に沿って文学碑が立ち並んでいるところがあって、その時の写真を見ると、井上靖大岡信芭蕉、子規などの作品を彫った句碑、詩碑が多数立っていることがわかるが、その中に太宰治のはあっただろうか? 写真には残っていないし、記憶にもない。しかし、実は三島は太宰治とも縁が深い街であることを最近知った。
 太宰中期の短編「老ハイデルベルヒ」は三島を舞台にした作品で、冒頭はこうだ。

八年前の事でありました。当時、私は極めて懶惰な帝国大学生でありました。一夏を、東海道三島の宿で過ごしたことがあります。

  「私」は高部佐吉という知り合いの家の二階に部屋を借りて小説を書こうと三島に赴く。

そのとき三島で書いた「ロマネスク」という小説が、二三の人にほめられて、私は自信の無いままに今まで何やら下手な小説を書き続けなければならない運命に立ち至りました。三島は私にとって忘れてならない土地でした。私のそれから八年間の創作は全部、三島の思想から教えられたものであると言っても過言でない程、三島は私にとって重大でありました。

  これほどまでに「私」にとって(すなわち太宰にとって)三島が「重大」な街であるなら、あの川沿いのどこかに太宰の文学碑も立っていたはずではないか。見落してしまったのだろうか? 

 ・・・と、ここまで書いて、あらためて写真をチェックしてみたら、ちゃんとあるではないか! 太宰の碑が。そこには「老(アルト)ハイデルベルヒ」の一節がしっかりと刻まれている。ここにその写真を載せたいところなのだが、つるつるに磨かれた石の表面にカメラを構える僕自身の無様な姿まではっきりと写ってしまっているので、ここでは見せられない。 

走れメロス (角川文庫)

走れメロス (角川文庫)

 

 ■追記(11月4日)

今、国語総合の授業で「富嶽百景」をやっている。その中にも、作品中の「私」(すなわち太宰治?)の三島愛をうかがわせるこんな一節があった。(と言っても、この部分を含む7ページほどは教科書には載っていないのだが。)

(吉田は)おそろしく細長い町であった。岳麓の感じがあった。富士に、日も、風もさえぎられて、ひょろひょろに伸びた茎のようで、暗く、うすら寒い感じの町であった。道路に沿って清水が流れている。これは岳麓の町の特徴らしく、三島でも、こんな工合いに、町じゅうを清水が、どんどん流れている。富士の雪が溶けて流れて来るのだ。とその地方の人たちが、まじめに信じている。吉田の水は、三島の水に較べると、水量も不足だし、汚い。

これでは、吉田の町では太宰の記念碑を建てるわけにはいかないだろう。

 

賑やかな葬列

 素敵な句集をご紹介します。街同人の長岡悦子さんの『喝采の膝』。

喝采の膝

喝采の膝

 

  空港出て揚雲雀目に痛きまで


 飛行機の旅では、我々はしばしば目的地から離れた、荒涼としたという形容が当てはまるような景色の中に降ろされる。そこからバスやタクシーで目的地に向かう、というのは現代の旅の一つの形であり、そこに現代的な旅情もある。観光地の景観よりも、空港から街へ向かう途中に見上げたまぶしい空の色と雲雀のさえずりが忘れられない、ということもあるだろう。

 

  山桜ブリキの金魚目が大き


 「ブリキの金魚目が大き」というのがまず一つの発見。さて、小さなフレームの残された余白に、どういう季語を配するか? 「〇〇〇〇〇」、「〇〇〇〇〇」、いろいろ試してみるのだが、やっぱり「山桜」で決まり!

 

  黒板に明日の日付鰯雲


 日中の喧騒が去った教室は、静寂の中に暮れようとしている。きれいに拭かれた黒板の右端には、きっと来るはずの明日の日付が書かれている。

 

  賑やかな父の葬列柳絮飛ぶ


 生前、私の父が「俺の葬式は湿っぽくやってくれるな、ぱあっと明るく騒いでくれ」と言っていたのを思い出す。この句の葬儀も、故人を慕う人たちが大勢集まって、賑やかだ。遺影を先頭に進む親族の頭上高く柳絮が舞っている。

 

  大柄でよく笑ふ子や夏蜜柑
  凩やぽんと明るく伊勢うどん


 こんな屈託のない句が見つかるのも、この句集の魅力。

 

■最近の「街」同人の句集

梅元あき子句集

大森藍句集

 

 

歌人、中川一政

 真鶴半島にある中川一政美術館を見てきました。

 真鶴に行った本当の目的は、御林の中の遊歩道を歩くことだったのですが、先日の台風で倒木が道を塞いでしまったらしく、通行不可。そこで、予定を変更してゆっくりと絵を見て帰ることにしました。ところが、災い転じて福となったと言うべきなのでしょう、中川一政の絵は予想を大きく上回る満足を与えてくれました。いや、予想以上というのは不正確な言い方で、中川一政については名前は聞いた覚えがある、という程度でほとんどイメージはなく、他に見所の少ないマイナーな観光地にある美術館という先入観で勝手に低く見ていたところが、思いがけずその認識を改めさせられた、というのが本当のところです。
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 中川の風景画は、大胆な色彩と力強い筆致、そしてどっしりとした構図で観るものを圧倒します。薔薇の絵はひとつひとつ異なる自作の額縁が面白く、その額縁と絵の調和が見事です。(目録などではその額縁が写っていないので、面白さが伝わりません。)一方、それらの明るい絵とは対照的なのが初期の風景画で、暗く濁った空の色に支配された画面が、メランコリックな感情を呼び起こす、何とも不思議な魅力を持っています。

  さて、中川一政との思いがけない出会いは先週のこと。そして、今日、注文してあった大岡信の『折々のうた』が届いてさっそく開いてみたところ、中川一政の短歌が二首、載っていたのです。 

静物にかきしレモンを湯に入れて子らに飲ましむ並びて飲み居る

ひとり身になりて淋しとおもはねど人がいふときさびしかりけり

大岡の評言にこうあります。

百歳になんなんとする長寿をまっとうした画家中川一政。ほとんど万能の人で、油絵から始めて日本が、水墨画も描き、書、篆刻、陶芸、挿絵、装丁、いずれにも個性溢れる世界を開いた。しかし中学時代は文学好きの短歌少年だったらしい。詩歌集も多い。

  中川一政美術館には、絵だけでなく、書も展示してあり、その多才ぶりの一端を伺うことができますが、歌人としても一流の活躍をしていたとは、驚きです。

文学者、シューマン

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 『音楽と音楽家』の読者は、いつのまにかメンデルスゾーンショパンやリストらが生きていて、次々と名作を生み出している時代にタイムスリップしていることに気づくだろう。そして、批評家、文学者としてのシューマンに出会うことになる。そこには、評価の定まったバッハ、モーツァルトベートーヴェンを尊重し、シューベルトショパンメンデルスゾーンに新しい才能を見出し、ブラームスの登場を心から喜ぶ、鋭敏な批評家としての姿がある…


 シューベルトハ長調交響曲を評した「天国のように長い」という一節は、この本の中に見つけることができる。(149㌻)


 それから、多数散りばめられたアフォリズムの中から、自分のお気に入りのものを拾いながら読み進む、というのもこの本の楽しみ方の一つであることを、付け加えておこう。その中のいくつか。

ある芸術の美学は他の芸術にも適応する。ただ材料がちがうにすぎない。(38㌻)
ある人間を知ろうと思ったら、どんな友達をもっているかきいてみるといい。同じように、公衆を判断しようと思ったら、何を喝采するか―というより何かを聞きおわってから、全体として、どんな顔つきをするか見るといい。(39㌻)
批評は、現代を反映するだけで甘んじていてはならない。過ぎ行くものに先行して、将来から逆に、現在を戦いとらなければならない。(40㌻)
多くの精神は、まず制限を感じた時に初めて自由に動き出す。(88㌻)
やさしい曲を上手に、きれいに、ひくよう努力すること。その方が、むずかしいものを平凡にひくよりましだ。(196㌻)
音楽の勉強につかれたら、せっせと詩人の本をよんで休むように。野外へも、たびたび行くこと!(198㌻)
小さいときから、指揮法を知っておくように。上手な指揮も、何度も見ること。一人でそっと指揮の真似をしてみたってかまわない。そうすると、頭がはっきりする。(202㌻)
芸術では熱中というものがなかったら、何一ついいものが生まれたためしがない。(202㌻)