文学者、シューマン

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 『音楽と音楽家』の読者は、いつのまにかメンデルスゾーンショパンやリストらが生きていて、次々と名作を生み出している時代にタイムスリップしていることに気づくだろう。そして、批評家、文学者としてのシューマンに出会うことになる。そこには、評価の定まったバッハ、モーツァルトベートーヴェンを尊重し、シューベルトショパンメンデルスゾーンに新しい才能を見出し、ブラームスの登場を心から喜ぶ、鋭敏な批評家としての姿がある…


 シューベルトハ長調交響曲を評した「天国のように長い」という一節は、この本の中に見つけることができる。(149㌻)


 それから、多数散りばめられたアフォリズムの中から、自分のお気に入りのものを拾いながら読み進む、というのもこの本の楽しみ方の一つであることを、付け加えておこう。その中のいくつか。

ある芸術の美学は他の芸術にも適応する。ただ材料がちがうにすぎない。(38㌻)
ある人間を知ろうと思ったら、どんな友達をもっているかきいてみるといい。同じように、公衆を判断しようと思ったら、何を喝采するか―というより何かを聞きおわってから、全体として、どんな顔つきをするか見るといい。(39㌻)
批評は、現代を反映するだけで甘んじていてはならない。過ぎ行くものに先行して、将来から逆に、現在を戦いとらなければならない。(40㌻)
多くの精神は、まず制限を感じた時に初めて自由に動き出す。(88㌻)
やさしい曲を上手に、きれいに、ひくよう努力すること。その方が、むずかしいものを平凡にひくよりましだ。(196㌻)
音楽の勉強につかれたら、せっせと詩人の本をよんで休むように。野外へも、たびたび行くこと!(198㌻)
小さいときから、指揮法を知っておくように。上手な指揮も、何度も見ること。一人でそっと指揮の真似をしてみたってかまわない。そうすると、頭がはっきりする。(202㌻)
芸術では熱中というものがなかったら、何一ついいものが生まれたためしがない。(202㌻)

 

じわっと効き目?

倉阪鬼一郎元気が出る俳句』読了。

元気が出る俳句 (幻冬舎新書)

元気が出る俳句 (幻冬舎新書)

 

 サプリメントの効用が信じられないのと同じで、飲んで(読んで)すぐ効く、などと期待して読み始めたわけではない。読み終えた今、やはり効能は実感できないが、面白い俳句・俳人にたっぷり出会えたという満腹感は残った。

  ゐのししのこども三匹いつもいつしよ   小澤實

  麦秋や今日のしつぽはよいしつぽ   水野真由美

 こういう句を読むと、「小さな命に癒され」るというよりも、どうしたらこういう力みのない句が作れるのだろうと思ってしまう。「なんだ、こういうふうに作ればいいのか、自分にもできそうだ」と、希望が湧いてくるのは一瞬で、いざ真似しようとしても、上手くいかないのはいつものことだ。

  スキー術変な呼吸がいい呼吸   京極杞陽

 この人の世界はあまりにも「変」なので、最初から真似しようなどという大それたことは考えない。それにしても、この句ほど自己肯定感をもたらしてくれる句はないんじゃないか。「それでいいんだよ、べつに間違ってないよ」って、励まされる感じ。あれっ、少し元気が出てきたかな。

アメリカの良心

ドキュメンタリー映画ニューヨーク公共図書館 エクス・リブリス」を観た。

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アメリカの情報と言えば、トランプとその周辺の動きばかりが報道されて、地球はこの先大丈夫なのかと不安になるばかりだが、この映画を観て少し安心した。アメリカにも有名無名の誠実で知的な人たちが大勢いて、世の中のために地道に働いている。もちろんそれは、アメリカに限ったことではないだろう。人間を、そして地球の未来をもう少し信じてもいいのではないかと、希望を抱かせる映画だった。

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岩波新書を代表する一冊

  高階秀爾の『名画を見る眼』を、僕は岩波新書を代表する一冊である、と断言してしまおう。いやいや、偉そうに「代表する」なんて言えるほど僕は岩波新書をたくさん読んでいるわけではない。でも、これが名著であることは間違いないと思う。今年1月、このブログに『続 名画を見る眼』を名著であると書いたが、それとは少し違う印象を持ちつつ、これもまた楽しむことができた。

名画を見る眼 (岩波新書)

名画を見る眼 (岩波新書)

 

  この本を読んでつくづく思ったのは、絵というのは、「読む」ものなのだなあ、ということだ。
・描かれているのは、誰が、何をしている場面か。
・画家はそれをどういう意図で描いたのか。
・その絵は発表当時の人たちにどのように受け止められたのか。
・その絵は、絵画史の中でどのような位置づけになっているか。
などなど、さまざまな文脈の中に置いて読まれるべき物である。しかし、絵の前に何時間立って眺めていても、わからないものはわからない。
 シャンデリアに灯された蝋燭が結婚のシンボルだ(ファイ・アイク「アルノルフィ夫妻の肖像」)とか、幼児イエスが戯れている仔羊は、イエスの受難を象徴する(レオナルド「聖アンナと聖母子」)とか。こういことを知らないと、「読み」は先に進まない。つまり、絵を読むには知識が必要なのだ。
 「名画を見る眼」は名画を「読む」ために必要な知識を手際よく示し、絵の世界に引きいれてくれる。また、たとえばマネの「オランピア」が大きなスキャンダルを引き起こしたのはなぜか、といった問いをまず立てて、読み手の興味を引き付けておいて先へ先へと読み進ませる書き方は、実に巧みだ。また、各章の末尾に「歴史的背景」という項を立て、その画家の西洋絵画の流れの中の位置づけを簡潔に示しているのは、「ここは試験に出るから、しっかり覚えておくように」的で、とても親切。試験の前、いや、美術館に行く前には、ここだけでも読んでおくと役に立ちそう。
 名画鑑賞の手引書として、最良の一冊。絵を読む前に読むべし。

ゴッホを読む

 僕がこれまで読んだ、「絵」について書かれた本の中では、これが一番面白かった。筆者の批評眼は鋭いし、語り口も読者を退屈させない。名エッセイとの評価もあるようだ。僕は古本屋で見つけた単行本を読んだのだが、今は文庫になっている。内容的に古びた部分はあるにしても(初版は1976年)、読み物として魅力的なこのような本は文庫にして残す価値がある。

絵とは何か (河出文庫)

絵とは何か (河出文庫)

 

  「絵とは何か」という問いに答えることは、ゴッホを理解することである、と筆者は考えている。しかしゴッホを理解するとは、どれほどの難事業であることか。筆者は言う。

絵は見られると同時に読まれるべき物である。『カラマーゾフの兄弟』をたった一日で読了するのが不可能なように、ゴッホの《烏のむれ飛ぶ麦畑》を数分間で読むことはできない。
しかし、一人の画家が、それもゴッホのように異例の画家が精魂こめて描いた絵を、なぜ、どうしてと絶え間ない質問をくりかえしながら読まなくては、作品を理解することにはならぬだろう。(ゴッホの遺書)

  「絵とは何か」という問いは、実に重い問いなのである。

緊急出版!?

 こんな本が「緊急出版」されたと知って、さっそく読んでみた。

  前の記事の続きの話になるわけだけど、本当にこれからの「国語」教育、どうなるんだろう? そしてどうするべきなのか? これはやはり目下の大問題だと思う。

 今回の「改革」に対して悲観的な意見ばかり言っていても仕方がないし、批判したところでもう決まってしまっている部分は今更どうしようもない。現場の人間としてできることをやっていくしかない。

 編者の紅野謙介は「残念ながら、この改革は百パーセント、失敗する」と言い切る。

それも、失敗だと自覚するのならば可能性はまだある。だが、失敗であることを自覚せず、やりすごしたままでは、だらだらと無限の失敗の道が続くことになる。
どこで踏みとどまるのか。空虚な器にどのように実質を込めるのか。
国語教育に関わる人たち、文学者や文学研究に関わる人たちがいま、こうした問いを突き付けられている。紅野謙介「いま『国語』の教育で何が起きているのか」)

  しかし、「問いを突き付けられている」はずの当事者の現状はこうだ。

多忙を極める現職の高校教員の中には、具体的に何が・どう変えられようとしているか詳しく知るだけのゆとりがない、関心を持つ余裕さえない、という人たちも少なからずいるのではないか。新しい「国語科」を推し進める側も、そうした現場の諦めと思考停止につけこもうとしている節がある。 (五味渕典嗣「新しい「国語科」は何が問題なのか?」)

  僕たちは重い「問い」を突き付けられていることを自覚し、「思考停止」に陥らないように努力を続けるべきなのだ。

新学習指導要領は、もはやどんなに批判しても変更することはできない。したがって今後は、その枠組みの中で子どもたちに身につけさせるべき「読解力」をどのように構築していくか、その中でPISA型読解力をどのように組み込んでいくのかという思考が求められている。大橋崇行「『PISA型読解力』に結びつく国語教育・文学研究」)

  その「思考」のための一助となるに違いないこの本が、多くの教師に読まれるとよいと思う。国語で「論理」を学ぶこと、「書く」ことの教育のあるべき姿、などについて考えるための具体的な提言、ヒントが満載だ。