掘り出し物

 俳人石川桂郎の名前は知っていた。気に入った句を書き溜めてあるファイルの中に、

  釣堀がこんなところに雨の旗

が見つかった。平井照敏編の『現代の俳句』の中にも取り上げられている俳人だ。この人が小説家として優れた作品を残していることは、『名短編ほりだしもの』というアンソロジーを読んで初めて知った。本業は俳句ですが、余技として小説も書いてみました、というレベルではない。いや、本業は家業を継いで理髪店を営む理容師なのだが、その営みの中から生まれた(と言っても、どれも架空の話だというのだが)「剃刀日記」の中の諸編はどれも心にしみる名編である。「少年」もしかり。 

名短篇ほりだしもの (ちくま文庫)

名短篇ほりだしもの (ちくま文庫)

 

  この手のアンソロジーを読む楽しさは、思いがけない作者や作品に出会えるということだ。この本を読まなければ、中村正常久野豊彦伊藤人譽という作家の存在を知ることはまずなかっただろう。あまた存在する短編小説のアンソロジーの中から、さんざん迷った挙句にこれと決めて注文した一冊だが、確かに「ほりだしもの」を掘り当てたという感触だ。北村薫宮部みゆきによる「解説対談」も面白い。このシリーズ、手あたり次第読んでみようかという気になる。

 

 【目次】

宮沢章夫「だめに向かって」、「探さないでください」
片岡義男「吹いていく風のバラッド」より『12』『16』
・中村正常「日曜日のホテルの電話」、「幸福な結婚」、「三人のウルトラ・マダム」
石川桂郎「剃刀日記」より『序』『蝶』『炭』『薔薇』『指輪』、「少年」
芥川龍之介カルメン
志賀直哉「イヅク川」
内田百けん「亀鳴くや」
・里見とん「小坪の漁師」
・久野豊彦「虎に化ける」
尾崎士郎「中村遊廓」
・伊藤人譽「穴の底」、「落ちてくる!」
織田作之助「探し人」、「人情噺」、「天衣無縫」

 

中学生に読ませたい小説

教科書名短篇 - 少年時代 (中公文庫)
 

  これは中学校の国語の教科書に掲載された短編小説を集めた本。教科書に載るだけのことはあって、さすがに名作ぞろいではあるが、中学生には難しいのではないかと思われる作品もいくつかある。例えば、竹西寛子の「神馬」。最後に主人公の少女が「不仕合せになっている自分」気付くという極めて繊細な場面があるが、その少女の心情に中学生は共感することができるか… もちろんこうした作品に心を動かされる、感受性の鋭い中学生もいるに違いないが、この小説の魅力を伝えるのに中学の国語の先生は苦労しただろう。
 期待して読んだ山川方夫の「夏の葬列」は、ドキッとさせられる部分はあるが、そこに作為の強さを感じてしまって、あまり感心できなかった(※下に追記あり)。僕が中学生に読ませる教材として一つ選ぶとしたら、三浦哲郎の「盆土産」。ユーモアもあって、生徒は素直に受け入れるのではないかな。
 ところで、自分が中学生の時、国語の授業でどんな小説を読んだのか、実は全く記憶がない。心に残る作品と出会うことがなかったのかもしれない。中学の国語の授業が面白かったという記憶は全くなく、そのために中学の国語の教師になりたい気持ちも毛頭なく、中学校の教員免許は取得しなかった。中学の免許を持っていない高校の国語教師って、珍しいんじゃないかな。

 

【目次】
少年の日の思い出/ヘルマン・ヘッセ(高橋健二訳)
胡桃割り/永井龍男
晩夏/井上靖
子どもたち/長谷川四郎
サアカスの馬/安岡章太郎
童謡/吉行淳之介
神馬/竹西寛子
夏の葬列/山川方夫
盆土産/三浦哲郎
幼年時代/柏原兵三
あこがれ/阿部昭
故郷/魯迅(竹内好訳)

 

■追記(2019年7月23日)

 今日、北原保雄の『達人の日本語』(文春文庫)を読んでいたら、山川方夫の「夏の葬列」について、「いささかフィクション性が強すぎるような気がする。出来すぎのような感じさえす。」「現実には起こりにくいような場面設定である。」と評している一節を見つけた。(計算された表現―「夏の葬列」の場合―)

 やはりそういう印象を与える作品なんだな。

 

 

教室で読む短編小説

 このところ、日本の短編小説を読むことが多い。
 昨年度一年間、文学作品に親しんでもらうために短編小説を一編ずつ読んでいく、という授業を担当していた。その準備のために、いろいろな作品を読んだ。多くは国語の教科書に載っている作品だったが、初めて読む作家もいた。
 山川方夫という作家を知らなかったのは、実に迂闊であったと思う。「他人の夏」と「朝のヨット」を読んだが、後者には強い印象を受けた生徒が多かったようだ。
 松田青子の「少年という名前のメカ」は、何度読んでも謎が残ってしまう作品。生徒の中からいろいろな解釈が出て来たのが面白かった。
 いしいしんじも初めて読む作家。「調律師のるみ子さん」と「ミケーネ」を読んだ。「調律師…」の方は登場人物の心理の変化を読み取らせるのに格好の教材。「ミケーネ」はちょっともやもやしたところが残ってしまって、生徒にはいまひとつピンとこなかったようだ。
 この4月から、職場が変わって、この授業の準備(教材の印刷が大変だった)と提出させた感想文のチェックからは解放されたが、通勤電車の中で読むのは短編小説が多い。最近読み終えたのが『戦後短編小説再発見1―青春の光と影』(講談社文芸文庫)。

戦後短篇小説再発見1 青春の光と影 (講談社文芸文庫)

戦後短篇小説再発見1 青春の光と影 (講談社文芸文庫)

 

 太宰治の「眉山」、三島由紀夫の「雨のなかの噴水」、小川国夫の「相良油田」、北杜夫の「上河内」が印象に残った。三島は昨年度の授業で「白鳥」を読んだが、残念ながら納得のできる授業にはならなかった。「雨のなかの噴水」は「白鳥」同様、若い男女間のお互いに対する心の揺れを描いたものだが、こちらの方が今の高校生には受け入れられそうな気がする。電車の中で小説を読むのも、半分は楽しみ、半分は仕事。

 

【目次】

太宰治眉山
石原慎太郎「完全な遊戯」
大江健三郎「後退青年研究所」
三島由紀夫「雨のなかの噴水」
・小川国夫「相良油田
丸山健二「バス停」
中沢けい「入江を越えて」
田中康夫「昔みたい」
宮本輝「暑い道」
北杜夫「神河内」
金井美恵子「水の色」

はるもにあ合同句集

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先週の釘ん句会には、「はるもにあ」所属で、3年ほど前に句集『風を孕め』を上梓された山口蜜柑さんが特別参加してくださいました。その山口さんにいただいた「十周年記念、はるもにあ合同句集」を読むのがこの一週間の通勤電車の中の楽しみでした。お気に入り十句選。


 折りたたみ折りたたみ盛るところてん   市吉久美子
 浅草や空豆乾くまで笑ふ         緒方博一
 恥じらひて着て大胆に脱ぐ水着      小春日ゆり
 噴水の上がり始めの重たげに       鈴木かこ
 熱風よ地球をひと巡りしたか       玉田憲子
 坐らせて運動会を鎮めけり        牧タカシ
 俎板へぺたりと海鼠打ちつける      松山ひろし
 拍手する手袋の音紙の音         松山悠介
 退屈な上着脱ぎけり青嵐         山口蜜柑
 あちこちを引つぱつて稲架とかれゆく   山崎杏

句集を持って公園へ

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今日のように気持ちよく晴れた休日になると、外で陽を浴びながら体を動かしたいという気持ちが押さえきれませんが、一方では家でのんびりコーヒーを飲みながら読書を楽しみたいという思いもあり、このアンビバレンツ(?)な欲望を二つながらかなえるには、リュックに読みたい本とコーヒーを入れたポットを突っ込んで、気持ちよく過ごせるいつもの公園へと自転車を走らせるしかありません。

今回の本は、送っていただいた『大森藍句集 象の耳』です。


  枇杷の皮するり太平洋暮るる

  回転椅子くるりと亀の鳴く声か


「するり」「くるり」というオノマトペを介しての場面の転換が面白いと思います。回転椅子がくるりは当たり前ですが、「亀の鳴く声」に意外性を感じます。


  少年の腰に鍵束祭果つ


少年の腰の「鍵束」に目を付けたところに新鮮さを感じました。情緒不安定な年ごろの男の子の、ちょっと荒んだ内面まで見えてくるようです。


  春田まで課外授業の大太鼓

  芒野を曲がれば牛舎よりワルツ


自分は今、自宅からほんの数十分離れた公園まで来ただけですが、これらの句を読むと、もう少し先の方まで自転車を走らせたような気持になれますし、


  山眠るナフキンの立つ食堂車

  歯刷子を手に新涼の水平線


になると、ちょっとした旅気分です。充実したひと時を過ごさせてくれた句集に感謝。


  朝顔の紺や百万都市夜明け

  初桜鉄棒の錆不意に匂ひ

  人類にセシウム蛇は穴に入る

絵画と建築

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(当然と言えばそうなのだが)ル・コルビュジェの展覧会が行われている今回ほど、建物としての国立西洋美術館の魅力に気づかされることはこれまでなかった。西洋美術館が目的地でないにしても、その前を通って都立美術館に行ったり、奏楽堂に行ったり、つまり上野に行けば必ずと言っていいほど西洋美術館の姿を目にするわけだが、しばらく立ち止まってうっとりと見つめる、などということにはならない。強くアピールしてくる要素をその外観から感じることはないのだ。しかし、今回、コルビュジェ(ジャンヌレ)の絵やローランス、リプシッツの彫刻などが展示された室内を一回り巡ったところで思ったのは、個々の作品の面白さということだけでなく、それを包み込む空間の魅力的であることだった。これらの作品を、想像の中で僕の知っている他の美術館に並べてみる。例えば、東京ステーション・ギャラリーはどうだろう。あそこで観たモランディは良かった。今回のコルビュジェの絵の中にはモランディの静物画を思い出させるものがあったが、展示するのはやはり西洋美術館だろう。額縁が絵の印象を大きく変えるように、作品はその置かれた場所により、その魅力を十分に発揮できたりできなかったりする。
美術館を好まなかったというヴァレリーがこの展覧会を観たら、どう思っただろう。

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表現の連鎖の面白さ

知ってる古文の知らない魅力 (講談社現代新書)

知ってる古文の知らない魅力 (講談社現代新書)

 

文学作品は、過去の作品表現の集積によって成り立っている。すぐれた作品はその上に新しい価値を付与したものだ。 

  あるいは、

すぐれた文学作品が生み出されると、それが新たな規範となって、後代の作品表現の形成に影響を及ぼす。 

 ということを、具体的な作品を取り上げながらわかりやすく説いている。例えば、『徒然草』の序文「つれづれなるままに…」は有名だが、それより前に書かれた作品の中に、こんなくだりがあることは知らなかった。

つれづれに侍るままに、よしなしごとども書きつくるなり。『堤中納言物語

つれづれのままによしなし物語、昔今のこと、語り聞かせ給ひしをり、…『讃岐典侍日記』

この本は、学習院大学での「日本文学史概説」での講義内容をそのまま書籍化したものだそうだ。高校の古文の授業は、細かい文法事項を突っつきながら、現代語訳を完成させることが中心になってしまい、そこまでで終わってしまいがちだが、本当はこういう授業ができると面白いのだろう。

もっとも、高校レベルでのそういう地道なお勉強という下敷きがあって、初めてこういう本を楽しめる、とも言えるのだろうが。